侘びと寂び

ものを作ることも文章書くことのもどちらも面白いけれど、どこか違う。ものをつくる場合創作というが、文章の場合創作文とは言わないと思う、パソコンで変換しても僧作文になってしまうのだ。
ものをつくる場合過去ではなく新しく作り出されるのに。文章は過去の蓄積の発露として表現される。読む人から見れば全く初めて体験できる境地だとしても、書く側からいえば過去の事なのだ。
創作物をみて感じることと、自然を見て感じることは違う。自然を見ての感動にたとえ人間が入っていても、自然の一部としてのでしかない。芸術作品はピカソならピカソ、ゴッホならゴッホという人の目との共鳴がなければ鑑賞できない。どこかその共鳴するところがお金にしかならない人もいるのだが、本来芸術とはそういうものだと思う。
民芸品に美を見つけた、柳宗悦は民芸品を人の作ったものとして認めながらその美は自然に属していると感じたから民芸運動を起こしたものだと思う。民芸品に作者の銘は必要ないのだ。自然の人が作ったもので「自分」ということを少しも意識しないで作り出されてきたものから出てくる美しさ、それは飾られなくても美しく、どこに飾ってもやはり美を発する。日本の侘び寂びとはそういうことをいうのだと思う。
以前にも書いたとと思うが、「侘しいと寂しい」とは、「来て欲しい行きたいということ」ちがいと同じだと僕は思う。
こんなのよりやっぱり食べる事のほうが面白いね。
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by takaryuu_spring | 2006-12-13 05:50


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