「筍の 名乗るか 唯我独尊と」 という一茶の句があるそうです。「顔を出した筍の顔を出したばかりのたけのこは、愛らしさよりも風格の方が勝るようです。一茶にはその雄々しさがお釈迦様の誕生の姿と重なって見えたのでしょう」と大谷光真氏は「朝には紅顔ありて」で解説がされていました。
唯我独尊には、「ONLY ONEのすばらしさ」それは同時に「自分さえよければという我欲を持つもの」をさしていると思います。 人間の苦は「ONLY ONEのすばらしさ」を忘れ比較の世界に浸ることから起こり、それは同時に「自分さえよければという我欲」に溺れ起こるものだということだと思います。 生命体のすべてが持つ欲の他に、人間の持つ欲に、自己顕示欲があります。比較の頂点に立ちたいという欲です。名声も美貌も健康も金メダルも歌謡大賞もノーベル賞もそれらを得る手段としての金など大抵の欲はこれで説明がつきます。 生命を受けるということつまり「天上天下唯我独尊」だと仏教ではとらえるのですが、一茶は、その生命を象徴的に筍として詠んだところがさすがです。筍は自分では唯我独尊と名乗っても、地下に延びる根により竹薮全体とつながっていて、本当は竹やぶの一部です。一本一本の竹や根から送られてくる栄養や水の力で筍は竹に成長していきます。命とはそう言うことだと言っているのだと思います。 大きく世の中が乱れた日蓮や親鸞が出る前の日本の仏教では、朝「南無妙法蓮華経」、夜「南無阿弥陀仏」と唱えたとか、朝日を見て今日も一日頑張るぞという思いははまさに元気な「南無妙法蓮華経」でしょうし、夜一日を振り返り反省の気持ちから思わず口から出るのは「南無阿弥陀仏」だったのでしょう。 日蓮の生き方では自分とは、他の竹から自分に流れ込み成長して行こうとする力のことで、竹薮の繁栄のために自分も大きく成長するのだと頑張る必要を説きます。反対に、親鸞はその力も自分のものでは無く、他の竹のお蔭様で存在しているので、そのことを身にしみて自覚しておかなくてはいけないということを説く教えだと思うのですが、如何でしょうか。 ■
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by takaryuu_spring
| 2006-08-20 22:29
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