死刑はやはりなぜ?

今年度の自殺者も30000人を越えたとか、仏教的には自殺とはは言わないで、自死というようですが。・・・
小泉毅さんが、今日、死刑の判決を受けました。

元厚生次官ら3人の殺傷を「飼い犬のあだ討ち」と主張した小泉毅被告(48)は法廷で、独自の理屈を述べて自分の行為を正当化し、反省や被害者、遺族への謝罪は一切口にしなかった。
 小泉被告が一貫して動機に挙げたのが、12歳の時の飼い犬の殺処分。処分が本当かどうかは確認できないが、被告は殺されたと思い込み、厚生省(当時)が保健所を管轄すると考えて恨みを抱くようになった。
 被告人質問では、ほおをたたいて涙ぐみながら飼い犬について語り、「保健所により犬や猫が生ごみのように捨てられている」と声を荒らげた。元次官や家族は厚生省という組織のトップだったことを理由に標的になった。小泉被告は「人の命だけがなぜ尊いのか。(殺害を)実現できて満足」とまで述べた。

更生の余地なしという、死刑の判決を下す裁判官も、犬の命と人間の命を天秤にかけているような気がして。

小泉さんと同じような考え方をした人が、江戸時代にもいますよね。

生類哀れみの令を出し、犬公方といわれた綱吉です。

「命を奪うことはできない。」と草も抜けなくなったり、でも自分は生きてはいきたくて、1本抜いては、なむあみだぶ、2本抜いては「ごめんねあんたに恨みなどないのだけれど、おらの野菜のじゃまになる。」というような話が柳宗悦さんの白蓮華?に、載っていました。

これは、お釈迦様の抱いた自分の命と他の命の疑問そのものを、普通の人が感じているということでしょう。
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by takaryuu_spring | 2010-03-30 23:26


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