最高善


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波は不思議、海は大きい。

海が盛り上がり、岸のほうに寄せてきます。

近かずくと、頭が崩れて白い波になります。

それが海岸で音を立てて壊れもとの海に引き戻されてしまいます。

存在とは波のようなものなのでしょうか。

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食べるということはすなわち殺生することになるのですよね。
細胞を新鮮な状態に保つために食事が必要なのだとか、栄養するとは、細胞の入れ替えだそうで、食べたものでも同じ命だと考えれば、殺しころされたのではなく、配置換えをしたに過ぎません。

殺しあうことなくすべてが幸せに暮らせないものか、という疑問を解決するために修行に励んだ釈迦でした。答えの得られないまま飢え死に寸前、行き倒れてしまいます。スジャータは、倒れていた釈迦の口に乳粥を運びます。それを飲み込んで気がみなぎってきたとき、釈迦は悟ったそうです。

歎異抄に「念仏にまさるべき善なきがゆえに」とあり、念仏を西洋哲学的言い方でいいかえれば「最高善」ということでしょうか。

善にもいろいろあって、善を自力で行う、自力的悟りの領解には100近い段階があるのだそうで、最高位はきっと如来ということでしょう。

盃ほどの器の人の悟りは、盃一杯分の善しか入りませんし、お椀ならお椀いっぱい、風呂桶なら風呂桶一杯分の善で、海の水ほどもある善を全部汲みあげられるほど大きな器など存在しません。

それが発想の転換で可能に、器が器だから海の水を汲み上げられないのだ、一滴の善も汲み上げられない笊ならどうだ、盃もお椀も風呂桶だって浸ってしまえば海いっぱいじゃないか。

海は地球のもの、阿弥陀は、無量壽如来であり、不可思議光だともいいます。なぜ二通りにいうのかというと、無量壽は空間的最大値であり、不可思議光とは時間的な最大値であり、時空を超えた存在であることを意味していると思います。

お釈迦さまの疑問は、四苦八苦の解決方法と、その前になぜ殺生しなくては生きていけないのか、ということだったと思います。

一切衆生悉有仏性です。

その仏性のあるものを殺して食べることは善ではなく、悪のはずです。

でも宇宙中には、阿弥陀仏という、一つの命しかないとしんじきれば、栄養することは配置換えだです。

それは、悪ではなく、よく食べることは善になります。

でもやっぱり一切衆生悉有仏性なのです。

私が、死にたくなく、老いたくなく、病みたくなく、そして生きたいように、すべての命を大事にしなくてはならないのでしょう。
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by takaryuu_spring | 2010-02-27 11:18


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