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願正の自分

弥陀の誓願不思議に助けられる人間なのですが、それは釈迦の誕生の不思議と私がこの世に生を受ける不思議と繋がっているとは思いませんか。

仏教は因縁の法、その中で無常を説いているのだそうです。

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トウカエデの肌荒れがすごいことになっていて、それともこれは垢なのか?脱皮して太くなるところでしょうか。

因縁とか無常といえば、僕は、現在からみると、前世現世来世と流れる命を思い浮かべます。

願生の自分であることを自覚することが一番大事なことだといいます。

その願生ですが、考えてみても僕は願ってこの世に生まれてきたとは感じられなくて、この願いは弥陀の願いなのだ、と解釈すればすべては解決すると考えつきました。

一切衆生悉有仏性といいます。この世に存在すべてに仏性があるということです。
そしてまた、悟るとは無我になることだ。といいますが、無我とは自分を無我にすることではなく、我(存在)には、ただそれだけで存在するものなど皆無だ、という意味ではないでしょうか。
そして、釈迦が無常の法がこの世の仕組みだというのでしょう。

「一切衆生悉有仏性・無我・無常」ということに釈迦は気づいたのでしょう。そこに弥陀の誓願がなければ、まだ世界は不平等で、人間まだまだ四苦八苦、とても救われなどしません。

願生と対の言葉は使命のはず、弥陀が使命を与えてこの世に命を与えた存在が自分なのだ、と僕一人が自覚することが弥陀の願いなのでしょう。母のため、子供のため、恋人ため、などだれかのために命がけになれることがあるとおもうのですが、弥陀は僕のために命をかけた、それが一人でも救いとれなかったら自分は仏にならない、という第18請願の意味するところでしょう。

そして、南無阿弥陀仏が最高の善だというのも、南無阿弥陀仏と心が働くとき、すなわち弥陀から与えられた使命感じている、ときで、無我の自分は隣の存在に気を配るのです。
# by takaryuu_spring | 2010-02-21 13:17

自力と他力

昨日、人の何気ない親切に出会い、なんだか良いことをしたときより一日楽しい気分でいられました。

帰って考えてみたのですが、自力と他力の違いとは、そういうことなんだ、と思いました。

人のことを思いやってする行為は自力です。

そして人から受けた好意にすなおにありがたいという心の起こることが他力なのじゃないか?
# by takaryuu_spring | 2010-02-07 21:33

法蔵菩薩

現在まで、親鸞上人ほど、誤解を受け続けてきた人はいないかも知れません。

僕が、歴史で習った親鸞は、「浄土真宗の開祖であり、浄土真宗とはただ念仏を唱えればどんな悪人でもあの世で浄土に生まれる。人間とは、もともと悪い心を持つもの、それはどうしようもないことなのだ。」とキリスト教の原罪と対比して習ったような気がします。

他力本願についても、ただ念仏を唱えれば何もしなくても阿弥陀様が浄土に救い上げてくれる。つまり自分ではなにもしないでただ念仏すればよい、だから他力というのだ。というように解釈しました。

そして、あの世などには無頓着な僕には、あの世の極楽などあてにしたくもなく、科学の未発達のころの考えなのだろうなあ。くらいに思っていました。

でも歎異抄を少し勉強してみると、そここそが歎異抄のいいたいことだったとはっきり分かります。


親鸞の三大諍論というのがありますが、法然の下で仏教を修行していたとき、他の修行僧と意見を戦わせたところです。

1、信と行とどちらが大事か。念仏を唱えれば救われるのか、阿弥陀仏を信じれば救われるのか。
2、親鸞の念仏は法然先生と同じものだ。念仏は誰の念仏でも同じである。
3、不体不体往生。体が死んで往生するのではなく、往生とは体とは関係のない心の問題なのだ。

ですが、これはどれも親鸞の悟りから出た言葉で、角度をかえて同じことをいっています。

1、信と行とどちらが大事かという問いかけに、380人いた修行僧のうちの親鸞を含む3人だけが「信」をとり、大半は、「行」の方が大事だという意見だったそうです。念仏こそが最高の行、みんな念仏の行者だったということです。親鸞曰く、「行というのは、自分が行うもの、それでは少しも他力などではない。」というのです。

2、「親鸞の念仏も法然先生の念仏も同じだ。」と言ったときは、何たる不遜とそしられるのですが、「親鸞と法然先生とが同じだと言っているのではない、阿弥陀様はただ一人しかおられないと言っているのだ。」といいかえします。

3、不体不体往生については、「死んでから浄土に行けるだって?この世で闇ならあの世でだって闇だろう。今救われたという確信がなければ来世だって闇にちがいない。」といいます。

蓮如は、「後生の大事」というよく言葉を使いますが、後生とは死んだ後のこと、「後生の大事」とは、「死ぬ前にやっておかなくては後悔しますよ。」という意味です。

阿弥陀仏は只一人の存在で、法蔵菩薩が「全ての人を救いとりその最後に自分も仏になる。」という誓願をたててなった如来です。

法蔵菩薩の誓願が真でなければ法蔵菩薩は如来になれない、つまり阿弥陀如来はいないことになります。反対に、阿弥陀如来がいるなら、即僕も浄土にいることになります。

また蓮如は、「弥陀たのむ」という言葉を多用しているようですが、「たのむ」は、「お願いします」という意味ではなく、いわゆるイスラムの「神の思し召しのように。」に近い「自分をまかせます。」と言う意味のようです。

「南無阿弥陀仏」という念仏を他力で唱える時、阿弥陀に掬い(掬うは、誤字ではなくわざとあてました。)摂られている自分がいますから、そのときにはもう自分ではなく阿弥陀になっていて、法蔵菩薩の誓願を自分が思うことになります。

これではなかなか悪いことはやりにくい。

阿弥陀の第18誓願は、阿弥陀のもの、それ以外の47願は「南無阿弥陀仏」と唱える人が心がけなければならないことなのでしょうか。


全ての人を浄土に行かせる船が弥陀の第十八誓願です。この船は全員が南無阿弥陀仏と阿弥陀にまかせて乗り込まなければ出帆しないのです。

ということになります。

正信偈は、帰命無量寿如来 南無不可思議光と始まります。



無量寿如来とは、この大宇宙のことでしょう。不可思議光とは、月や太陽の光には影ができますが、その宇宙の隅々まで陰日なたなくあまねく届く、引力のような力を持った光だという意味だと思います。
# by takaryuu_spring | 2010-01-30 09:27

歎異抄3

昨日は、歎異抄の勉強会に行ってきました。
歎異抄に20回も出てくる念仏ということについての講義でした。

最初に出てくるところは、「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて往生をばとぐなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の起こるときすなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」です。

念仏には、万行随一の念仏、万行超過の念仏、そして自然法爾の念仏の三通りあるのだそうです。

「仏教とは何か」一言で言うと。「諸悪幕作 衆善奉行 自浄吾意 是所仏教」だと教えてくれたところがありました。その字のまま読めば、「悪いことをしないで、みんなのことを思って行動していると、自分が清められていきます それが仏教ですよ。」ということでしょうか。今日学んだ「称名念仏に三通りあり。」はまさにそのところでした。

「万行随一の念仏、万行超過の念仏、そして自然法爾の念仏」という言い方は親鸞の言葉なのだそうですが、それぞれ弥陀の十九願、二十願、そして十八誓願に対しての念仏であり、お釈迦様は、観無量寿経、阿弥陀経、そして大無量寿経として説いておられるということでした。

万行とは諸善と同義語だそうで、随一はただ一つのことだけでも貫き徹せということでしょうか、六波羅蜜とか六度万行とか言われる、1.布施、2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 6.智慧 のことです。

その中の布施について、布施にもいろいろあって、大きく財施と法施に分けられます。財とはお金や労働や物品といった一代限りのものを言います。

法施とは、仏法をひろめることを言います。

法になるのか財になるのか判別が難しいのですが、無財の七施というものもあって、一銭もかかりませんし何の能力がなくてもできることですから、これなら僕も努力してもいいかもというものです。

1.眼施(優しいまなざし)
2.和顔悦施(穏やかな顔)
3.言辞施(愛情のこもった言葉)
4.身施(思いやりで動く体)
5.心施(こころくばり)
6.床座施(席をゆずる。芥川の蜘蛛の糸でももその場を替われるか。)
7.房舎施(客としてもてなす)
です。

万行随一の念仏とは、これらのことを考慮にいれて、一つでもいい徹底して行うということなのでしょうか。

弥陀の十九願、釈尊訳の観無量寿経とは、「LOOK!無量寿(阿弥陀)を。」という名前のお経だそうですが、人間は業の深い生き物、どんなに頑張ったって仏になどなれるものではありません。

そこで弥陀は二十願をたて、お経では阿弥陀経になりますが、親鸞の万行超越の念仏といわれる部分です。

万行超過とは、「善をし尽くすことは人間の限界を超えている、おれ(弥陀)の側に立って生きてみてごらん。」ということでしょうか。

十九願から二十願、それは十八誓願へ導く弥陀の計画なのだそうです。

我聞の昨日の講義は以上でした。
# by takaryuu_spring | 2010-01-17 09:53

歎異抄2

他力本願といわれる真宗のことを、何の努力も我慢もしなくてもお浄土に行ける易業だとよく言いますが、そうではないようです。

他力とは、自分の力ではないこと、自分の力だけで生きている人などいるわけはなく、大自然の営みの一貫として自分もあるということでしょうか。
本願とは、その大自然の仕組みを弥陀というのかもしれませんが、弥陀の本願とは大自然の調和するということだと僕は思います。

つまり他力本願とは、「努力や我慢をするな」というのではなく、大自然と調和するように、弥陀の側に立って行動しろということで、我があってはできないこと、とても易業などではないように僕には思えます。

法然の念仏も親鸞の念仏も同じだと言った親鸞です。
さらに、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言いたまうべからず、仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したまうべからず、善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや、法然の仰せまことならば親鸞が申す旨またもてむなしかるべからず候か。」というのですから、釈尊の念仏も親鸞の念仏と同じものだといっているのでしょう。

途中「釈尊の説教」と出てきて、次には「仏説」とあります。そこで人間として釈尊が仏陀如来に変っているのでしょうか。

同じことだというのだと思いますが、念仏が自力ではなく、弥陀の本願のなせる業だからというのだいうのでしょう。

酒を飲みながら、鳥皮をつまみに、頭の中ではそのように考えられるのですが、では実際にどのように生きることが仏の意に沿うというのか?

「生きる目的は何で、目的に即した生き方とはどういうものなのか?」
「弥陀に助け上げられたとはどういう状態なのか?」

ということは、
# by takaryuu_spring | 2010-01-15 23:05