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正信偈3

至心信楽願為因
阿弥陀仏の願いが成就する為には心から信じ生を楽しむこと。

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
必ずすくいとるという法蔵菩薩の願いが成就されているのですから、阿弥陀仏に帰命すれば、つまり悟りを啓いたことと同じことなのです。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
お釈迦様がこの世に生まれたわけは、ただただ阿弥陀仏の海のように深く大きい本願を説く為なのです。

よく仏教は無常を教えているとか、因縁の法だとかいいます。
日蓮宗で大事にする教えは、一念三千の法で、物事は常にお互い作用しながら一時も同じ姿ではいないもの、そして、その動き方を十如是で説明します。(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)、を十如是といい、存在には相があり、性質があり、力があり、作用があり、因がえれば縁もあり結果もうまれ報もうける・・・そしてまた始めにもどる、と輪廻の説明しています。

お釈迦様も人間として生まれ、仏陀となられたのですが(迹門)、誕生のずーと以前、違う世界で如来だったと言います(本門)。それを久遠実釈迦牟尼世尊といい、この世に阿弥陀の本願を説く為に出生したというのです。

お釈迦様の修行については、一番親しまれている般若心経で、観音菩薩は、知恵を絞って世の中を観てみると、世の中「無」なんだと気づく。そう思った瞬間悟りを啓いた。という説明しますが・・。

でもそんなこと分かっても自分の心に起きるさまざまな波から逃れることは出来るわけがありません。青年のころの親鸞は、飢えや睡魔と闘い修行したのですが、性欲を抑えることはどうしても出来ない。夢にまで女性出てきて夢精してしまいます。存在するためには、食事も睡眠もそれに性交だって必要なのに、それを欲というならどう「生きろ!」というのだ。と悩みます。

そして法然に出会い見つけた救いが南無阿弥陀仏でした。

五濁悪時群生海 応信如来如実言
どんなに汚れきった世の中、欲だらけの自分でも、如来の願いに応えるなら

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
自分の生を喜び愛する心を起こせば、煩悩は断ち切られ悟りの世界に入る。

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護
如来の大きな海に浸かってしまえば、聖人罪人の別などない、如来の眩しい光に護られているのです。

已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
阿弥陀如来の光は無明を突き破っていくのですが、なかなか自分の欲も強く心は自分は欲に埋まって晴れた気がしない。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜

でも、たとえ日が雲に隠れていて、暗いときでも光がさしていると信じきっていれば喜びがこの心に満ち溢れてきます。
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by takaryuu_spring | 2010-11-30 01:40

正信偈 2

「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」

法蔵菩薩は、五劫という長い時間考えた末48の願を選びぬかれて阿弥陀如来になりました。

「劫」とはとても大きな数字、壱拾百千万億兆・・・・不可思議無量大数・・劫、10進法の最後の方に、不可思議とか無量大数がありますがそれよりもっと大きな数のようです。
現在はどうかわかりませんが、オーストラリアのアボリジニの考えでは数は1と2だけだそうで、もので考えてみれば同じものは二つはないのですから確かにこれが真実ですよね。
でも便宜上にしろゼロを考えたインド人はすごい!!、10の0乗は壱なのですよね、実際にないものでも観念がある訳ですから。

少し脱線してしまいましたが、その「劫」の5倍が五劫ですから、実際にはビックバン以前の宇宙が出来る前まで遡ることになり、「宇宙が始まったときはすでに阿弥陀で、その声をきいてくれという願いで始まった。」ということでしょうか。

普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹

物の属性として、全ての物には万有引力が働いていますよね。そのほかにも色々な光や波長を出しているのでしょう。阿弥陀の放つ光は、際限なく大きく、遮ることのできるものもなく、清らかで知恵と歓喜満ちた、太陽や月の光など比較にならないほど光です。

一切群生蒙光照

地球に引力があるから立って歩けるように、気づかなくても全ての存在は、この光に照らされていないものはありません。

本願名号正定業

阿弥陀の願いは、阿弥陀に気づくこと、南無阿弥陀仏こそが正しい生き方なのです。



・・・南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・
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by takaryuu_spring | 2010-11-20 01:37

正信偈

仏教は、宗教ですが、なにか神様のような存在を信じる宗教ではなさそうです。

浄土真宗の人がお勤めに唱える正信偈ですが、お経ではないそうです。

お経は、お釈迦様のお言葉を書き残したもので、正信偈は、親鸞聖人の書かれた『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文なのだそうです。

漢字ばかりの文なのですが、日本人の親鸞の書いたものですから、お経より理解しやすいだろうと意味を考えてみました。

まず、正信偈ですが、「正しい信心」ということでしょうか。正しく信ずるとうということですが、それなら正しくない信じ方もあるわけで、それが歎異抄で指摘されています。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まります。

帰命も南無も帰依するも同じ意味なのだそうですね、漢文とサンスクリット、そして日本語なのでしょうか。

無量寿如来とは、時空を越えた大きな存在ということで、不可思議光とはその存在が及ぼす作用のこと、存在していて働きかけているおおきな力があるという事実が、無量寿如来 不可思議光で、「自分は、その一部であることを認識します。」ということが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」なのだと思います。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」だけで全て言い尽くされているのですが、あとは解説でしょう。

次は、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」です。
菩薩が願を発しそれが成就したとき如来になります。つまり「阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩といわれていたとき、世自在王仏のもとで修行していました」ということでしょう。

「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
蔵菩薩は、諸仏の中にいて、救いがたい人の世の善も悪もみて、それでも全ての人をすくうというとんでもない誓いをたてられた。

そして法蔵菩薩の願いは成就され阿弥陀如来になられたのです。

今日はここまで。
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by takaryuu_spring | 2010-11-13 13:28