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死刑はやはりなぜ?

今年度の自殺者も30000人を越えたとか、仏教的には自殺とはは言わないで、自死というようですが。・・・
小泉毅さんが、今日、死刑の判決を受けました。

元厚生次官ら3人の殺傷を「飼い犬のあだ討ち」と主張した小泉毅被告(48)は法廷で、独自の理屈を述べて自分の行為を正当化し、反省や被害者、遺族への謝罪は一切口にしなかった。
 小泉被告が一貫して動機に挙げたのが、12歳の時の飼い犬の殺処分。処分が本当かどうかは確認できないが、被告は殺されたと思い込み、厚生省(当時)が保健所を管轄すると考えて恨みを抱くようになった。
 被告人質問では、ほおをたたいて涙ぐみながら飼い犬について語り、「保健所により犬や猫が生ごみのように捨てられている」と声を荒らげた。元次官や家族は厚生省という組織のトップだったことを理由に標的になった。小泉被告は「人の命だけがなぜ尊いのか。(殺害を)実現できて満足」とまで述べた。

更生の余地なしという、死刑の判決を下す裁判官も、犬の命と人間の命を天秤にかけているような気がして。

小泉さんと同じような考え方をした人が、江戸時代にもいますよね。

生類哀れみの令を出し、犬公方といわれた綱吉です。

「命を奪うことはできない。」と草も抜けなくなったり、でも自分は生きてはいきたくて、1本抜いては、なむあみだぶ、2本抜いては「ごめんねあんたに恨みなどないのだけれど、おらの野菜のじゃまになる。」というような話が柳宗悦さんの白蓮華?に、載っていました。

これは、お釈迦様の抱いた自分の命と他の命の疑問そのものを、普通の人が感じているということでしょう。
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by takaryuu_spring | 2010-03-30 23:26

ナム阿弥陀仏

東大寺などの柱は、ギリシャのエンタシス文明の影響だともいわれます。
日本には、メソポタミア、ギリシャ、インド、中国などシルクロードを通って当時の最先端の文化が運ばれてきました。

でも、日本にそれを受け止める受け皿があったからそれらの進んだ文明を吸収できたのだと思います。

文明開化といいますが、鎖国を解くとき、西洋文明に劣らない文明を持っていたから、知らない間に、いとも簡単に西欧に追いつき追い越していた日本です。

日本には、一神教の人には理解できるはずのない「よろずの神」がいます。

お寺にもたいてい守り神が祀られていて、豊川稲荷などお寺の方の影のほうが薄くなってしまっています。

大きなところは神様が受け持ち、人間的な部分は仏様が受け持つ。畠の神様がいて、鍬にも仏様がいるから大事にする。裁縫の神様がいて、一本の針にも仏性がある。

日本人の中には全てのことの前に、八百万の神がいるのです。

ですから、仏教が来ても、キリスト教が伝来しても、八百万の一員として反対されることなく受け入れられてしまいます。

宮脇昭さんの説によれば、『鎮守の森』とは、タブーな地、人間の手出しを拒むところのようです。
ですから、たいていの神社の木々は大きい。

鎮守の森に対し、寺の庭は、人間の自然に対する考えの表現の場です。

日本庭園の粋は石庭でしょうか。
木も花もないところに自然の営みを想像させる、人間だけにしか必要性のない空間です。

神社と寺の関係は、鎮守の森と石庭の違いだと僕は思います。


芥川の『タバコと悪魔』でしたか、日本に上陸し、張り切っていた悪魔が、日本の鐘の音を聞いて暖簾に手押し、頑張らなくなります。

それでも一神なら、それではナム阿弥陀仏、おかげさまがもったいなくありがたい。

それが、お蔭様の正体だと思うのです。
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by takaryuu_spring | 2010-03-22 23:16

おかげさま

日本人は、「おかげさま」という言葉をなにげなく使っているのですが、いったい何の陰なのでしょう。

最近、浄土真宗のページを見て、はじめてわかったことですが、真宗のお経の最初の部分に出てくる「南無不可思議光」という、日の光よりあまねく到達している光、すなわち阿弥陀仏の力をさしているのだと気づきました。

真宗も、非常に誤解されている宗教のようで、戦時中は国粋主義の片棒を担がされたことさえあって、現在寺はもうかる葬儀屋業を専らとして寺本来の役割を果たそうという住職もまれな状態になっているようです。

真宗の入り口から見てみると、日本の仏教は仏教とはとても思えない教えのようです。

真宗では、死後も前世も輪廻も転生も関係なく、現在をどう捉えればいいのかということを問題にしているようです。

そこには不可思議光を放つ無量寿如来が出て来てきて、「全ての存在には、生も死も自も他もなく、ただ阿弥陀如来のうちにある。」と説きます。

阿弥陀仏から見て、人とは、阿弥陀の細胞の一つです。
そして自我とは自己主張の激しい癌細胞のようなものなのでしょうか?

人間の細胞にはそれぞれ役割があって、全ての細胞がその役目生き生きとと果たしているとき、人は、健康な状態で生きているのですが、細胞が自分勝手に動き出すと収拾がとれなくなってしまいます。

つまり人間でいうなら、人間らしく生き生きと生きることが阿弥陀の願いであり、それが人間の目的になるのでしょうか。


大乗とは、全ての人が乗れる弥陀という大船に任せること、弥陀の本願とは船に乗ればそれで悟りの国に連れて行きます。というアナウンスなのでしょう。

そして、南無阿弥陀仏いう心の起きるときとは、「着席しました。」という返事です。
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by takaryuu_spring | 2010-03-20 11:51