<   2010年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

法蔵菩薩

現在まで、親鸞上人ほど、誤解を受け続けてきた人はいないかも知れません。

僕が、歴史で習った親鸞は、「浄土真宗の開祖であり、浄土真宗とはただ念仏を唱えればどんな悪人でもあの世で浄土に生まれる。人間とは、もともと悪い心を持つもの、それはどうしようもないことなのだ。」とキリスト教の原罪と対比して習ったような気がします。

他力本願についても、ただ念仏を唱えれば何もしなくても阿弥陀様が浄土に救い上げてくれる。つまり自分ではなにもしないでただ念仏すればよい、だから他力というのだ。というように解釈しました。

そして、あの世などには無頓着な僕には、あの世の極楽などあてにしたくもなく、科学の未発達のころの考えなのだろうなあ。くらいに思っていました。

でも歎異抄を少し勉強してみると、そここそが歎異抄のいいたいことだったとはっきり分かります。


親鸞の三大諍論というのがありますが、法然の下で仏教を修行していたとき、他の修行僧と意見を戦わせたところです。

1、信と行とどちらが大事か。念仏を唱えれば救われるのか、阿弥陀仏を信じれば救われるのか。
2、親鸞の念仏は法然先生と同じものだ。念仏は誰の念仏でも同じである。
3、不体不体往生。体が死んで往生するのではなく、往生とは体とは関係のない心の問題なのだ。

ですが、これはどれも親鸞の悟りから出た言葉で、角度をかえて同じことをいっています。

1、信と行とどちらが大事かという問いかけに、380人いた修行僧のうちの親鸞を含む3人だけが「信」をとり、大半は、「行」の方が大事だという意見だったそうです。念仏こそが最高の行、みんな念仏の行者だったということです。親鸞曰く、「行というのは、自分が行うもの、それでは少しも他力などではない。」というのです。

2、「親鸞の念仏も法然先生の念仏も同じだ。」と言ったときは、何たる不遜とそしられるのですが、「親鸞と法然先生とが同じだと言っているのではない、阿弥陀様はただ一人しかおられないと言っているのだ。」といいかえします。

3、不体不体往生については、「死んでから浄土に行けるだって?この世で闇ならあの世でだって闇だろう。今救われたという確信がなければ来世だって闇にちがいない。」といいます。

蓮如は、「後生の大事」というよく言葉を使いますが、後生とは死んだ後のこと、「後生の大事」とは、「死ぬ前にやっておかなくては後悔しますよ。」という意味です。

阿弥陀仏は只一人の存在で、法蔵菩薩が「全ての人を救いとりその最後に自分も仏になる。」という誓願をたててなった如来です。

法蔵菩薩の誓願が真でなければ法蔵菩薩は如来になれない、つまり阿弥陀如来はいないことになります。反対に、阿弥陀如来がいるなら、即僕も浄土にいることになります。

また蓮如は、「弥陀たのむ」という言葉を多用しているようですが、「たのむ」は、「お願いします」という意味ではなく、いわゆるイスラムの「神の思し召しのように。」に近い「自分をまかせます。」と言う意味のようです。

「南無阿弥陀仏」という念仏を他力で唱える時、阿弥陀に掬い(掬うは、誤字ではなくわざとあてました。)摂られている自分がいますから、そのときにはもう自分ではなく阿弥陀になっていて、法蔵菩薩の誓願を自分が思うことになります。

これではなかなか悪いことはやりにくい。

阿弥陀の第18誓願は、阿弥陀のもの、それ以外の47願は「南無阿弥陀仏」と唱える人が心がけなければならないことなのでしょうか。


全ての人を浄土に行かせる船が弥陀の第十八誓願です。この船は全員が南無阿弥陀仏と阿弥陀にまかせて乗り込まなければ出帆しないのです。

ということになります。

正信偈は、帰命無量寿如来 南無不可思議光と始まります。



無量寿如来とは、この大宇宙のことでしょう。不可思議光とは、月や太陽の光には影ができますが、その宇宙の隅々まで陰日なたなくあまねく届く、引力のような力を持った光だという意味だと思います。
[PR]
by takaryuu_spring | 2010-01-30 09:27

歎異抄3

昨日は、歎異抄の勉強会に行ってきました。
歎異抄に20回も出てくる念仏ということについての講義でした。

最初に出てくるところは、「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて往生をばとぐなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の起こるときすなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」です。

念仏には、万行随一の念仏、万行超過の念仏、そして自然法爾の念仏の三通りあるのだそうです。

「仏教とは何か」一言で言うと。「諸悪幕作 衆善奉行 自浄吾意 是所仏教」だと教えてくれたところがありました。その字のまま読めば、「悪いことをしないで、みんなのことを思って行動していると、自分が清められていきます それが仏教ですよ。」ということでしょうか。今日学んだ「称名念仏に三通りあり。」はまさにそのところでした。

「万行随一の念仏、万行超過の念仏、そして自然法爾の念仏」という言い方は親鸞の言葉なのだそうですが、それぞれ弥陀の十九願、二十願、そして十八誓願に対しての念仏であり、お釈迦様は、観無量寿経、阿弥陀経、そして大無量寿経として説いておられるということでした。

万行とは諸善と同義語だそうで、随一はただ一つのことだけでも貫き徹せということでしょうか、六波羅蜜とか六度万行とか言われる、1.布施、2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 6.智慧 のことです。

その中の布施について、布施にもいろいろあって、大きく財施と法施に分けられます。財とはお金や労働や物品といった一代限りのものを言います。

法施とは、仏法をひろめることを言います。

法になるのか財になるのか判別が難しいのですが、無財の七施というものもあって、一銭もかかりませんし何の能力がなくてもできることですから、これなら僕も努力してもいいかもというものです。

1.眼施(優しいまなざし)
2.和顔悦施(穏やかな顔)
3.言辞施(愛情のこもった言葉)
4.身施(思いやりで動く体)
5.心施(こころくばり)
6.床座施(席をゆずる。芥川の蜘蛛の糸でももその場を替われるか。)
7.房舎施(客としてもてなす)
です。

万行随一の念仏とは、これらのことを考慮にいれて、一つでもいい徹底して行うということなのでしょうか。

弥陀の十九願、釈尊訳の観無量寿経とは、「LOOK!無量寿(阿弥陀)を。」という名前のお経だそうですが、人間は業の深い生き物、どんなに頑張ったって仏になどなれるものではありません。

そこで弥陀は二十願をたて、お経では阿弥陀経になりますが、親鸞の万行超越の念仏といわれる部分です。

万行超過とは、「善をし尽くすことは人間の限界を超えている、おれ(弥陀)の側に立って生きてみてごらん。」ということでしょうか。

十九願から二十願、それは十八誓願へ導く弥陀の計画なのだそうです。

我聞の昨日の講義は以上でした。
[PR]
by takaryuu_spring | 2010-01-17 09:53

歎異抄2

他力本願といわれる真宗のことを、何の努力も我慢もしなくてもお浄土に行ける易業だとよく言いますが、そうではないようです。

他力とは、自分の力ではないこと、自分の力だけで生きている人などいるわけはなく、大自然の営みの一貫として自分もあるということでしょうか。
本願とは、その大自然の仕組みを弥陀というのかもしれませんが、弥陀の本願とは大自然の調和するということだと僕は思います。

つまり他力本願とは、「努力や我慢をするな」というのではなく、大自然と調和するように、弥陀の側に立って行動しろということで、我があってはできないこと、とても易業などではないように僕には思えます。

法然の念仏も親鸞の念仏も同じだと言った親鸞です。
さらに、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言いたまうべからず、仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したまうべからず、善導の御釈まことならば法然の仰せそらごとならんや、法然の仰せまことならば親鸞が申す旨またもてむなしかるべからず候か。」というのですから、釈尊の念仏も親鸞の念仏と同じものだといっているのでしょう。

途中「釈尊の説教」と出てきて、次には「仏説」とあります。そこで人間として釈尊が仏陀如来に変っているのでしょうか。

同じことだというのだと思いますが、念仏が自力ではなく、弥陀の本願のなせる業だからというのだいうのでしょう。

酒を飲みながら、鳥皮をつまみに、頭の中ではそのように考えられるのですが、では実際にどのように生きることが仏の意に沿うというのか?

「生きる目的は何で、目的に即した生き方とはどういうものなのか?」
「弥陀に助け上げられたとはどういう状態なのか?」

ということは、
[PR]
by takaryuu_spring | 2010-01-15 23:05

歎異抄

歎異抄の勉強を始めて一ヶ月、こんなにゆっくり本を読んだことはありませんでした。
読み始めると一語いちごに疑問が出てきて、なるほどベストセラーだと感服します。

YOUTYUBでヨウマのバッハを流しながら、もうひとつネットを開いて分からないところを検索しながら本を読む。この方法はとても良い。。。

http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou.html

歎異抄は、「異を歎く言葉」なのですが、では一体何が違うと歎いたのか?

関東で広く布教をし、60歳で京都に戻ったのですが、その後親鸞の息子が「親鸞聖人から直接聞いた話だ」とご利益仏教を広め始めたことに、本当かしらと疑問をもった信者が京都の親鸞の下に聞きただしに行くところから話は始まります。

親鸞については、生まれは1173年といいますから鎌倉幕府の起こる少し前、保元平冶の乱の頃で世はまさに末世、地獄の様相だった頃です。

お公家さんの息子に生まれたのですが、4歳の時父に死なれ、8歳の時には母を失い、9歳で出家して比叡山に入ります。

修行に励んで将来を嘱望される僧になっていたのですが、自分では行き詰る。

これは、僕の考えですが、性欲をどうしようもなくなっていったのだと思います。

起きている時は抑えることができても夜な夜な夢の中に女性が現れ、あろうことか夢精をしてしまう。そして有名な「妻帯せよ」というお告げを得たのだと思います。

でもまだそんなこと・・・と悩み、比叡山をおりて法然のもとに、

そこで「煩悩具足なのが人間、その煩悩ごと救うと阿弥陀が誓ったのだからそれで良いのじゃないの」と言われ悟ります。

たぶん阿弥陀とは空気や太陽の光や夜の闇・・などと同じ、好き嫌い、拒む拒まないの問題ではなく向こうから配給されていることで、弥陀の「差出人払いの書留郵便」で、南無阿弥陀仏という念仏は、「確かに受け取っています」という受領印だと僕は思うのです。

これは、きっと正しい。でも「思う」ではまだ受領印を押してはいない。

法然の念仏も親鸞の念仏も僕の念仏も同じでなどあろうはずがない。

自分でも、誰か人でも神でも仏ほでもいい頼りにしたくなる。自信をもって「それでいいのだ」というふうには生きられないのです。

ということで、歎異抄をゆっくり読んでみようと思います。

歎異抄を読んでいて、その中で不思議ということが問題になります。不思議ということを漠然と不思議なことと思っていたのですが、不思議というのは数字でもあるようで、「10の80乗」だそうで、10の2乗が100で、3乗が10000で、4乗が100000000、5乗が10000000000000000、それ以上お金では無関係になります。でも不思議より大きな数字がまだまだあって、ゼロを発見?したインド人の頭の中はどうなっているのでしょう。

弥陀の不思議を歎異抄では言うのですが、人間界では釈迦が悟りを啓き仏陀になったことの方を優先させます。現実には私たち人間が生を受けた不思議がその前にあるのですが、ベクトルとしては、弥陀から私個人に向いていると知るべきなのでしょう。

では、「弥陀の願いとは」なんなのか。

なんのために僕に命を与え、僕にはどんな使命が託されているのか?

今日はここまでですが、使命とは「いのちを使う」と書きますが、僕は今この時間どう命を使えば良いのか?

と思いながら思いつかず、焼酎に燗をしながら、カラヤンをのボリュームをあげました。
[PR]
by takaryuu_spring | 2010-01-01 19:47