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脳卒中・・・25

僕と同室の早川さんは右マヒで言語もやられているため静なものでした。
若く右脳をやられた人の多くがそうですが、言葉や計算能力の極度の低下により自信をなくし、もう廃人になってしまったかのように思うもののようです。

過去の栄光に浸り、現在の自分を隠すのに必死でなかなか自分から進んで何かをやろうなどとはしません。もうあきらめてしまっているかのようです。

話も、ですからあまり好んですることもありませんし、人の輪にも入りたがらないのが普通です。
同室でも早川さんもそんなでしたから、朝の挨拶をするくらいでした。

左をやられた人はやたらしゃべる人もいますが、被害妄想みたいにいつも誰かの悪口をいっていないと気がすまないようで、愚痴っていることが多いようです。

脳梗塞に罹った中で若いと思った僕でしたが、ここでは平均より歳のようでした。まあ同年輩の人が多いのです、それなのになかなか話の合う人を見付けることができませんでした。

職員や介護の人には猫をかむり、同年配の入所者とは話が合ず、孤独な荘生活でした。

たとえ顔があっても、こちらからお早ようと言わなければ、まず「お早よう」はありませんでした。
それが最初に「お早ようございます」と挨拶を先にくれたのは、その年養護学校を卒業してここに入った田中さんでした。
(この施設は18歳以上~60歳位迄の人を対象にしています)

養護学校を卒業しても家で甘えていますから、実際には身の回りのことも一人ではできないことが多いのです。
ここではなんとか自分のことは自分でできるようにと、そんな子たちを親から離して2年間訓練するのです。

健康な人には信じられないような簡単なことが、障害のある身ではそれは大変なことなのです。 
僕達脳卒中組の比ではないと思います。
田中さんもとても重い障害の子で、握力は1~2くらいで鉛筆を持つのも大変でしたし、自分の力では立つことも真っすぐ座っていることもできません。

体中の筋肉がほとんどないように思われます、ただ頭と口だけは達者でした。
田中さんに話しかけられ、おかげでその若い子達の遊びの中に入れてもらうことができました。
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by takaryuu_spring | 2007-02-25 15:50

東海・サタデープログラム

ドリームでは、東海中高学校主催の大イベント、東海・サタデープログラムに、「脳細胞が死んだとき起きる不思議」という講座をひらきました。

今日は、その中僕の発表した原稿を掲載します。

皆さんようこそこの部屋にきてくださいました。とても嬉しいです。
僕たちが講座を持ちたいと思ったのには二つの理由があります。

理解して欲しいことがあることと、協力してもらいたいことがあるからです。

「やってもらいたいばっかかよう」ですか?
すみません、そうなんです。何しろ障害者ですから、

でも税金を一杯使って支援していただくことより、
そんなことしていただいて、社会の邪魔者になっているより。

皆さんに理解され、皆さんに協力してももらえれば、
なにかできそうで・・・・
今しばらく誰かの役にたっていたい、人間でいたいと思っています。

僕たちにできることは、
僕たちのような人が、理解されて存在できる社会を作ること。
その一歩として、僕たちの思いを発信をすることだと思いまして。

それで、とっても恥ずかしいのですが、講座を持ちました。


障害者とは
皆さんは障害者を考えた場合、どんな障害を持った人のことを考えますか?

それでは脳卒中という病気のことをご存知ですか?
最初に挨拶した理事長を見て、障害者だとわかりましたか?



車椅子に乗っている。白い状を突いている。片手がない、
などという目で見える障害だけが、障害ではありません。
脳梗塞・脳内出血・くも膜下出血など、脳血管障害を総称して脳卒中といいます。
血管が詰まったり切れたりして、脳細胞に栄養や酸素が行き届かないと脳細胞が死んでしまい、そういう病気のことです。

つまり、脳という、考えたり、情報を受けたり指示を出したり連絡をつけたりする大本の故障で色々なところに不具合が出てくる病気です。


高次脳機能障害
脳の中のことですから、動くことのほか、
感情や感覚知能といった外見ではわかりにくいところに異常が出ることもたくさんあります。

目に見える形になって現れる障害には、杖や装具を装着するとか、車椅子を使うなどして補います。

でも見えない障害は皆さんに障害について知ってもらうしか、ありません。

これが分かってもらえないと生活の中では結構困るのです。
でも、未だに国から障害と認めてもらえないこともたくさんあるんですよ。

一番説明しやすい言語障害について少しお話します。
言語障害には、構音障害・失声症・失語症などがありますが、構音障害と失声症は筋肉が上手く働かなくて起きる言語障害で、トーキングマシンなどで補え、運動障害で、高次脳機能障害とは言いません。

それに対して、失語症は声が出せるのに、
言語を理解しているのに、言葉が見つからないという不思議な障害で、
これは高次脳機能障害とよばれます。


目の見える脳卒中の障害
高次脳機能障害の種類
見た目の障害にははっきりした類似点があります。
人の違いに例えてみれば、右麻痺・左麻痺・下肢不全などは人種の違いかも知れません。
そして高次脳機能障害は顔が違うように全員違います。

脳のどの部分をどのくらい深刻に壊されたかによって、現われる障害は全員ちがって当然なのです。

ドリームで活動している障害者は20名ばかりなのですが、ここの講座の席にも来てもらいました。
みんなそれぞれ似た障害も違った障害も持っています。

脳卒中のいろいろな障害についての説明は、時間の都合でできません。
今日は解かってもらいやすい、見えにくい障害だけ説明します。
分かりにくいものでは本人もなかなか気づけないほどへんな障害もあります。

丹羽さんお願いします。
7年前にドリームを立ち上げた丹羽さんは、発病当時障害も少なく、東山一万歩コースを歩いたり、プールで泳いだりしていたのだそうです。

働きたいと思ったそうですが、障害が少なくても、障害者に仕事の場はなかなかないのです。
それではとドリーム立ち上げたそうで、そのときは今の僕より元気だったのですが、再々々発と病気を続けいまは車椅子です。

今の丹羽さんの姿をみて、可愛そうだとは僕は思いません。

僕自身障害を持ってみて「可愛そうに」と思われたくないからです。

大きな障害を持ってもこんなにニコニコしていられる。本当に脳卒中の「大先生」だと尊敬しています。

丹羽さんは、見える障害として車椅子を使わなければ移動できませんが、他に言語障害もあります。

丹羽さん自己紹介してください。
丹羽さんの障害は構音障害といって、口を上手く動かせないために言っていることが聞きとりにくく、でも機材を使えば伝えられるものです。

言語障害でつらい障害に高次脳障害のひとつ、失語症があります。

アンちゃん、梅北さん、お願いします・・・地下鉄に乗るとき困ることをみんなに説明してください。その他、皆に知ってもらいたいことがあったら、手短に話してください。

右麻痺の人に多い障害ですが、失語症は頭でわかっていても適切な言葉が見当たらない本当に変な障害です。

また、話せても文をかけない人もいます。最初に挨拶した理事長の郷内さんの障害です。


高次脳機能障害には、理解できない障害が沢山あります。
アンちゃんは少しおかしいと笑いが止まりません。それで一番世話になったおじさんのお葬式にも出られなかったとか聞いたことがあります。

僕は自分の意見が理解されないとパニックになります。自分の言い出したことから抜け出せないのです。

ドラマを見てすぐ泣く人も沢山いますが、そういう障害を総称して感情失禁といいます。

現れている感情が本当の自分のものではなく、制御も出来なくなってしまいます。人を傷つけたり誤解されたりして本当に困ってしまいます。


星屋さんや郷内さんは3次元をイメージできないようなところがあります。階段が下りられないとか、上りに見えないとか、見ていて危なかしいです。

その他、反対のことが正しく思えてしまう人もいて、赤信号で飛び出してしまう人も知っています。こうなると危なくて一人で外出できません。

障害が少ないように見えるかも知れませんが、障害の認定では脳卒中の場合結構大きな障害があると判断されているので、助かります。

僕や梅北さんはⅠ種2級ですし、丹羽さんは勿論ですが、アンちゃんもⅠ種1級です。
まあ杖を使っている人はⅠ種1級か2級、つまり専門家には分かってもらえているところもたくさんあるということです。

Ⅰ種1級といえば、生命保険で言えば病気死亡保険金と同額が支払われると思います。

実は交通事故で頭を打って起こる、脳外傷の後遺症には目に見えない障害が脳卒中の人より沢山あるようです。
見えないので、認定されない障害も沢山あって僕たち以上に困っているとききます。

脳細胞が死んだときおこる様々な不具合は、本人にもどうすることもできないこと。つまりそれがその人の障害なのです。

それを「全部分かってくれ」などとは言いません。そういう障害の存在を知ってもらいたいだけです。
大体以上のことが理解して欲しいことです。


障害者手帳にはⅠ種何級、Ⅱ種何級と書いてあります。このⅠ種とⅡ種の違いについて少し説明します。
国鉄が決めてくれたことですが、国が決めたということで公私合わせて全国の交通機関がこれに準じて施行しています。

Ⅰ種は公共交通機関を利用する時一人では危ないかもという人、
Ⅱ種は一人で大丈夫だという人です。


ちょっと見ただけではとても分からないのですが、一緒に体験してみてください、私たちの動き方が健康な人と違うことを、本当に風が吹いても転んでしまうほど不安定なのです。
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by takaryuu_spring | 2007-02-25 05:02

脳卒中・・・24

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何度か職安に通いましたが、障害者のそれも50歳過ぎでは、職などまるでありません。

目的が変えられれば訓練はどれもそれなりに楽しく、それでも生活では相変わらず多くの衝突がありました、その不満はたいてい僕の心の中に蓄積されて表には出されないものでしたが。

入所者は18歳から22・3歳の養護学校卒業後の社会に出る前の若い人たちと、50歳前後の脳卒中や事故などにより重い障害を持った人たちに分けらます。
そして又事故など体起因の障害の人と脳障害により体に障害が出ている人と言うふうにも分けられるかも知れません。
脳の障害は少なからず体以外の所、たとえば知能や感情や感覚にも及んでいる者が多いと思われます。
僕も含めて後から脳障害になった者たちにはどうも正確に自分を認識できていないようなところがあってひがみっぽかったり、すでにもうあきらめてしまっていたりします。どうしても正常だった自分の過去にしがみついてしまいがちなのです。
「もうそんな正常な自分は存在しない」というふうに考えることは、それは難しいことには違いありませんが、まるでとは言わなくても脳が壊れたということはやはり前の自分ではない自分をみつけるべきなのです。

いつもぷりぷり怒っている人、少しのことにも烈火のごとく怒る人、笑いがとまらない人、すぐに泣く人・・・これらが本当の感情ではないのですからややこしい。
これは僕のことですが、たとえば真剣におこられている時、蝿がその人の頭にとまったとします、すこしは滑稽かも知れませんが以前なら面白くもなんともなかったことです。そこで吹き出したりしたら失礼に決っていますから、おかしいなどという顔など微塵もするものではありません。
それが押さえきれないほどおかしくって吹き出してしまい、一度おかしいと思ったが最後もう笑うことをとめることができないのです。しかたありませんからそうなる前に視線を他に移し、まるきり関係のないことを必死に考えて、その情況を忘れなければなりません。見えてなくても頭にその情景が残っている限り吹き出すに違いないからです。
「人が注意しているのにちゃんと聞かんか」と言われても聞けない理由があるのです。
ものすごく感情に正直な反応も困った物です、少しそう思ったことがまるきりそう思っているように顔にでるのですから。
あまり怒らない僕ですが、一度とても腹が立っていかりの中に自分が入ってしまったことがあります。いわゆる「きれた」という状態だと思います。
これは、はじめての経験でしたが、怒るほどに快いいかりに身が浸透していくのがわかりました。そしてすぐになんの原因で怒っているのかなどどうでもよくなったのです。
もうなにも考える必要もなくただなにがどうなってもよい、というふうに物を壊したり自分の体の痛いのも関係なくたたいたり、というふうにできそうな気がしました。
はは~んこれが「きれる」というやつだな、なるほどこれは病み付きになるかも知れんと思い、僕の自制心はまだその状態を長く続けることを止めさせましたが、麻薬の恍惚状態もきっとこんななのでしょう。きれやすい人は好んでこの状態なるのだとさえ思います。
多分、外に表現される感情より自制心の方がうんと強いのが普通なので、笑いや怒り悲しみの表情をセーブした状態を人々は普通見ているのでしょうが、脳細胞の死亡は、脳の回路を一度入った感情がくるくる回りながら増幅されていくという袋小路に変えてしまったのだと思います。それがほんとうの自分の感情ではないのですからいやになります。
おかしくなくても大笑いしなくてはならず、かなしくても感激してもなみだが止まりません。いかりは止めるどころかどんどん増幅され、また自分の気持ちを言うなど感情の入った意見や話をするなどという時には、体が緊張して硬直が始まり、すぐに頭が真っ白になって何も思い浮かばなくなり、話は中断せざるお得なくなるのです。
医者は知覚過敏や感情のことを否定するかも知れませんが、これは本当のことです。
随分余談になってしまいましたが、壊れた脳の場所によりその目に見える症状だけでなく見えない部分でも障害を得ているのだということが言いたかったのです。
そして他人もその本人もそのことになかなか気がつかない、また気がついてもすぐ忘れて正常なような気がしてしまうことに問題があるのです。
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by takaryuu_spring | 2007-02-23 18:34

脳卒中23

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名古屋城のお堀のの周りを散歩しました。この場所には50年前には、戦争で焼け出された人たちがバラックを建て、お堀の水を使って生活していました。
そう思って、お堀の水を覗き込んでみると、今はその頃のように透明ではなく、口にできそうにはありませんでした。

緑風荘
ここが僕の期待外れの場所だったことは確かでしたが、荘側にもそれなりの理由がもあったということと、その期待はずれの場だったことが、結局僕には幸いだったと今は思っています。
もし期待通りの所だったら今頃どこかでお金儲けのために働き、色々がっかりしながら又脳梗塞を悪化させて入院していたことでしょう。

期待しなければ不満もそれだけ小さなものになりました。与えられなければこちらから何かを捜し求めるもののようでしたし、そうして取り組むことは自分で意義を見付けてやることですから、何をやっても興味深く取り組むことが出来たのです。
たいして趣味もなかったと思っていた僕には、時間が足りないほど多くの趣味があったようで、もし高校の時にそれに気付いていたら、勉強だってきっと楽しいものだったに違いありません。

訓練は三ヵ月に一度変更があり、大勢の人間がいることですから思い通り、という訳にはいきませんが、こちらの意見も随分入れてくれます。
リハビリとOT・簿記は減らし代わりに七宝・裁縫・書道の時間をつくってもらいました。 
これらは結構おもしろくやらせてもらいましたが、どうも仕事のための訓練からは外れかけたのかもと思いました。

実は緑風荘は職業訓練所ではまるでなく、介護が必要な人が、できるだけ自分で生活できるように、との日常生活訓練所だったのです。ですから一応ですが、頭の中も体もなんとか正常に働かせることのできる僕の期待には、そってくれなかったわけです。

最初はそんなこととは理解できていませんでしたから、日常生活でも合点のいかないことが多く、良いと思ってすることが、ことごとく反対に怒られるはめにあい、欝憤は蓄まるばかりだったのです。

傾いている下駄箱を真っすぐにしようとして「危ないからやりたいのなら男子介護にたのめ」だとか庭掃除をすると「後から私たちがするからさわらないで」とか、自分以外のことに手を出すとたいてい注意を受けます。
潔癖症だとは思っていませんでしたが、かなりの潔癖症だったみたいで、真っすぐに並んでいないレンガや水平に飾ってない額だの、抜き放しの草などが気になってしかたありません。注意されても内緒でやるものですから、そのうちには「もうなにも言わないけど気をつけてやってね」という人もいたりして。
三ヵ月もすると緑風荘への考えもあきらめに変わり、もう自分で職安に行って仕事を捜さなければ駄目かもと考えました。
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by takaryuu_spring | 2007-02-22 22:49

脳卒中・・・22

最初はここでの訓練の見学です、タイプと言われる訓練はワープロの入力でこれは覚えなくてはと思いました。
ゴム印の訓練は今はもう時代遅れの、使用もされないゴム印を使って行なうものでしたが、麻痺した左手のリハビリには役に立つとは考えました。
でもなんでこれが職業訓練なのだ??

簿記もできれば覚えたいと思っていましたが、電卓を使ってたし算をする作業でイライラがつのるだけのものす。
それに小学校の計算ではなんの役にも立ちそうもありませんでした。

OT(作業療法)はみんなのおしゃべりばかりで、なにも訓練しているようには思えませんでしたし、PT(リハビリ)ではここぐらいは素足のよさを理解してくれると思い「裸足でやってもよいか」と聞いたのですが、玄関での答え以上に訳の分からない理由でそれは否定され、それでもいいはる僕のことばは「君はきまりを守れないのですか」という言葉で無視されました。
それで「悪法も法だからな、」と腹が立ちましたから言ってしまいました。

いつも靴下を履き、靴を履くことが僕に強要され、専属の医者も食堂にチェクに来て靴下履かないかんよ、とわざわざ注意します。僕以外にも靴下をはかない人はいるのにです。
それよりも頭にくるのは、入所者以外の職員にはそれが許されているかのように、突っ掛け草履に素足など皆あたりまえのようなことなのです。
これは飼い馴らすためだな、有無は言はさないつもりなんだと思いました。

最初に玄関を通って廊下を歩いたときに受けた印象は、つまらない色眼鏡となってしばらく物事を公正に見る判断力を失わせてしまいました。そして実につまらないことなのですが不平の芽はどんどん大きく育ちます。

リハビリに関しては部屋でやり、時々通う病院で指示して貰おうと決め、ゴム印は手の訓練、と納得して励みます。
簿記は新発見でした、頭がどうも少し変なようで自分で「7」を入力しているつもりでも「9」と入力してしまうなどということが頻繁にあるのです。
間違えないようにと指差確認していても「7」と発音までして押したキーは「9」だったりするのです。
1枚のプリントを計算するのに何度やっても同じ答えが出ませんから、1週間もかかるなどということは当たり前なのです。もう簿記などという決して間違ってはいけない仕事には絶対就けないと思いしりました。
まあ、簿記など、もともと嫌いでしたから、たいしてショックにはなりませんでしたが。
タイプという訓練はワープロの入力の練習でした。
これはきっとなにかのためになると思いました。
その操作は本来そんなに難しいものではなかったのですが、何度やってもすぐ次の日には忘れています。信じられないことですがちゃんと使いこなせるようになるのには一年以上かかったかも知れません。

古い記憶は正確に残っているようなのに(もっともこれは自分だけにしか分からないことなので、本当にそうなのかどうかは定かでありませんが)新しくものを覚えることは、随分苦手になっているようでした。
こうして自分のことを再認識させられてみると、どうもあまり人にお薦めできるような代物ではなく、がっかりしました。
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by takaryuu_spring | 2007-02-20 23:54

脳卒中・・・21

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緑風荘(絶望か)
その第一歩の玄関を入って廊下を十歩も歩かないうちに「草履はいかん草履は」と注意されました。
「この草履はいかん」は、いかんどころか僕は正しい選択だと思っていたことでしたから「何故だめなのか、医者からも奨められ病院でやっとの思いで履けるようになった履物で、補装具なしでこうして歩けるのもこの草履のお陰だ」とその正当性を必死に訴えたのですが「駄目なものは駄目だ理由は、駄目は駄目だから駄目だ、他の人が見たら危ないと思うだろうこれはきまりだ」と言われ草履は断念させられてしまいました。
それが緑風荘の第一歩でした。この理由もはっきりしない「駄目だ」はここへの印象を決定ずけ、その後の物の見方も必要以上に否定的に見る結果をもたらしたのです。
着る物の他は食住その他みんな向こう持ち、着る物もジャージに下着に寝間着が要る程度でしたから住み込む荷物などいたって少量、旅行カバン一杯に後は洗濯バサミとかハンガー・洗剤といった雑貨だけです。
僕に与えられた部屋にはベッドが五床置いてはありましたが、三人部屋の女子棟。何故か入所者は断然男子が多いのです。それで女子棟もその半分が男子の住む部屋になっていました。
その廊下側で部屋の扉は何時も開け放たれ、閉めることが許されていませんでしたから、外に一番近い20号室は冷たい風が何時も入って来るように思われました。(実際には暖房が利きすぎていて暑かったのですが)
介護の人が入所の心得などと共にこの部屋の説明を事務的に早口にしてくれます。最初受けた印象がありますから、こちらの質問はほとんど否定的な答えで打ち消されてしまうように感じられます。この時には絶対的否定ではなくて「のようにみんなにはしてもらっています」程度のものだったのでしょうが、そうはもう聞くことがありません。
自分の正当性を訴えても良い悪いではなく決りだ、そしてこの決りは全てに優先し、どんな例外もそこには入る余地のないことのように強い口調で告げられていると感じました。
ベッドとロッカー一本、それをカーテンで仕切ってこれがこれからの貴方の居住空間だと言われた時には、病院でベッドを指定された、あの明るくまぶしい感覚に比べなんとも惨めめな囚人になったような気さえしたものでした。
しょんぼり元気のなくなった僕を見て、荷物を置いて帰る妻は「随分感じの悪いところね大丈夫?入るの止めようか」と言ったものです。
「決めたんだからここで少し頑張る、仕事が見つかるまで・大丈夫だ僕は結構順応性があるから」といってはみたものの憂欝な気分でした。
それが今はでは、休みの日もここで色々することがあって帰るのがおっくうに思うのですから変ったものです。
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by takaryuu_spring | 2007-02-18 23:13

脳卒中・・・20

布絵を作りました。   メダカともう一つはマンサクの花です。  
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脳卒中・・・20
実はこれは僕達の思い込みだったのですが、パソコンや簿記やその他なにか覚えてそれから企業を斡旋してくれるものとばかり思っていました。
ここで慌てずに待っていればそのうち道も開けると安心し期待もしました。
そしてその年も終わりに近い、発病してから丁度一年になりますが緑風荘に入所することになりました。
家の食事の支度は又おばあさんがやってくれるということになり、またも千代ばあさんの世話になることになります。もう中学生の朋子には四六時中いる僕は欝陶しい存在でしたから、たまに帰る方が却って良いかとも思いました。
緑風荘に一度見学に行きました。なんとなく陰気な印象を受けましたがそれでも、自分の思い込みに大変な期待があった為、随分過大評価した見方しかしません、実際に見たことではなく自分の「こうあって欲しい」という希望をその通りだと思い込んでしまうことはよくあることです。
ここでもそんな間違いをしてしまいました。それで入ってからの現実と想像していたこととのあまりの違いに考え方を修正するのには大変に苦労しました。

自分がどういう情況に置かれているのかということ、そしてこれからどんな可能性があるのかといったことも再認識せざるをえませんでした。
それは自分がひょとすると、と考えていたことを全部否定しなくてはならないものでした。
ここでの最初の数ヵ月の生活はとても暗い、ほとんど今迄もっていた考えを全部否定しなければならないような絶望的な考えしか湧いてこない場所でした。
不平不満の固まりになって、ここには何も期待出来ない、あてにしたのが馬鹿だったとさえ思ったものです。
しいていえば規則正しい生活、これだけがとりえ、半年経ったら退所したいものだと考えました。
それが何ヵ月かの後、考え方を軌道修正することに成功してみると、もしここにこなかったらこんな考えになることもなかったのだから、これはこれでとても僕にとって有り難かったと今考えております。
一足飛びにそんな考えに至ったのではありませんが、「人は生きる為でも働く為でも食べる為でもなく、ただその生を悦び讃える為に存在を許されたと知るべきだ」というのが今の考えです。

この考え方はとても無責任なようですが、すべての物事は本来「それで、その今あるそのままで良い」ということになって、不自由になった身でも本来なら、かなり責任のある立場の僕にとっては都合の良い考えでした。
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by takaryuu_spring | 2007-02-17 02:54

脳卒中・・・19

通院
退院してからはリハビリを受けるために毎日病院に通いました。
それは機能回復のためにというより趣味のない僕には、テレビを見るくらいしかすることがないからでした。
朝起きて朋子の朝食を作り学校に送り出します。ラッシュの時間が過ぎるとバスはがらがらになりますから、それから病院に出掛けるのです。
バス停までは家からも病院までも300メートルほどで、これは歩きます。
年間96枚の初乗りタクシー券を市から支給されましたから、リハビリに疲れた時にはタクシーを利用しました。
午前中が外来のリハビリ時間です。お昼ご飯は家にもどってから自分で作り、夕食の支度もみんなの分まで作ります。
左手がほとんど使えませんからあまり上手には出来ませんが、昔忙しい居酒屋をやっていたお陰でなんとか3人前程度なら片手でも出来るのです。
苦手な事は食材や食器を洗うことでした。
人参など、小さい物はしっかり持って洗わなければなりませんから、大変な苦労を要します。水に濡れた食器はすべって持てません。一番難しいのは食器洗いでした。
掃除もしたいことなのですが、片手で簡単に動かせる物ばかりではありません。掃除をするとなるとそれを動かさなければなりませんが、簡単にはいきません。椅子のない畳の家ではやたらに荷物がそこらじゅうに置いてあり、座ったり立ったりしもなくてはなりませんしとても手に負えそうにもなく、これもほとんどパスでした。
半身不随者にしては家でも随分色々やる方でしたが、出来れば仕事を見付け少しでも生活の手助けをしたいと思っていました。

それでもなにが出来るかの見当も自分ではつかない状態でした。
そんな時病院で緑風荘という障害者の施設があるとききました。リハビリ仲間の真柄さんからは障害者ばかりの職場も存在して、給料も12・3万くれる所とか、住み込みで働く所があるなどということも聞きまました。
これは少し調べてみてもらはなければと妻に頼みます。
区の福祉の人に相談しますと緑風荘が良いかも、ということでその年の九月になってから申し込んでみました。
住み込んでリハビリや職業訓練をしながら仕事を捜し、その斡旋もしてくれるのだということでした。
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by takaryuu_spring | 2007-02-16 18:34

脳卒中・・・18

脳梗塞(壊れている自分)

なってみないとお医者さんでもわからないと思うこと
これは僕の考えで、本当に正しいかどうか確かではありませんが、そして僕の場合のことしかわかりませんが、
 
左が駄目になったのに右で行う動作にも多大な影響が在り、それを自分では理解しにくいということ、例えばボールを真っ直ぐ前に投げた場合、思った距離の三分の一も飛びませんし、真っ直ぐ前にも飛んでくれません。
これはボールを投げるという動作が実は右だけで行っているのではなくて、左右両方の筋肉を使った回転運動によって投げているからなのです。

片足立ちも簡単なことのように思えますが、立ち続ける為のバランスは背骨を中心とした回転が重要な役割をしています。
歩いている時の方がバランスはとりやすく、止まって立っている方がかえって難しいことでした。バスを待っていて強い風が吹いたりした場合、吹き飛ばされそうになりよろっけてしまいますから。

転びそうになった場合にはたぶん本当に転んでしまいます。時と所を選んではくれません人混みのスーパーの中でもお構いなしに、必死に転ぶまいとして出す健康な方の手はかえって棚に積んである物を巻きぞえに、あたりにひっくり返しながら情けなく仰向けにひっくりかえってしまいます。
誰かとちょっと肩が触れ合っただけでもそんな状態になることがあります。 
見かけはがっしりした体をしているのに、そんなことは関係ありません。これは本当になってみないと解らない情けないことです。ですから皆さんももし杖をついている人がいたら、そんな状態なのかもと思って気をつけてほしいものです。
 
運動機能はまだ目に見えていますからよいのですが、目に見えない脳の中の異常がどんなところに現れてくるのか、それ以上に現れてもきていない異常もあるわけなのですから、その方はどうなっているのかは僕自身も非常に興味深いところです。

感情
喜怒哀楽 これが自分の思ったようには現れてこないということ。
信じがたいことですけれど、本当に可笑しい時に笑い、本当に腹が立つと時に怒り、本当に悲しい時に泣き、というふうには自分の顔が演じてくれないということには、ほとほと困ります。

たとえば真剣にお小言を頂戴している最中にふと見た柱のふしの形が魚に見えて、それがほんのちょっと可笑しかったりすると、以前ならそんなに可笑しことでもなかったのですが、もう笑いをおさえることが出来ないほどにたにた顔が笑ってしまうのです。
 
「なにが可笑しいんだ!」とますますおこられることがわかっているのに、それをおさえることもできません。
そしてそこにはおかしくて笑う自分と、なにがおかしんだと冷静に見ている自分の二人がはっきりいるのです。そして冷静な自分は笑いこける自分をどうすることもできないのです。信じられないことですが確かにそうだと思います。
テレビで野球観戦などしていますと、ヒット一本でもファインプレーでも涙なしに見ることもら出来ません。
感激する方の自分が勝手に感涙を流し続けるものですから、もう一人の自分は、恥ずかしくて人と一緒になどおちおちテレビも見などいられません。
涙が出るのはそんなに悪い感触ではないのですが、それでも以前とはちょっと異質のもののように感じます、それに人前ではとても恥ずかしいものです。
体も心も自分ではすぐには馴染めないものになってしまったようです。
あれ そうすると自分って一体何なんだ ?
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by takaryuu_spring | 2007-02-15 09:48

脳卒中・・・17

それからは、だいたい毎朝病院にリハビリを受けに通いました。
鼻緒の付いたゴム草履を履いて出かけます、草履は病院にいるときはけるようになりました。初めて裸足で床におり、汚いと言われた時スリッパを履こうとしたのですが、すぐ脱げてしまってだめでスリッパはなんの役にもたちませんでした。
少し歩けるようになってからは鼻緒の付いた物ならと草履にしたのですが、これもまるで履けません。一歩で脱げてしまいます、指が鼻緒を握らないのです。 
歩く訳ではなく、車椅子に乗っているのですから、それを履いてトイレに行き小便をするだけなので履いて行きます。
いつも足に付けて履けるようになろうと努めていますと、指がなんとなく鼻緒を握ってくれるようになり履けるようになりました。(調子の悪い日には脱げてしまいすが)
足の親指と人差し指の間に鼻緒を挟んでいれば、それで脱げそうにないようなものなのに、そうではないのです。ちやんと2本の指でつかまえていたのです。
リハビリは腹筋・足の屈伸・股の開閉・手の振り・などをやります。
これも入院中に思ったことですが、相撲の四股にはなるほどと感心させられました。手を大きく真上にあげてその手のひらをパチンと打つとか、足をうんと上げてペタンと叩き下ろすなど簡単そうに見える事が、実はとても色々な筋肉の調和の上になされることだと気づきます。
椅子に座って足をペタンとやるのですが、右手で膝を押してやっても、なかなか左足からは良い音が出ません、良い音どころか骨が床に当たって痛いだけなのです。 
これは地面を意識してやらねばと、それでもやっていると足の裏の反対の地面が突然受け入れてくれて、パチンと柏手を打ったような音でこたえてくれるのです。これも感激の一瞬です。
手のパチンはもっと難しいもので、良いほうの右手は地面より意地悪なのではないかと疑いたくなるくらいです。それで今でも時々しか良い音にはなりません。
そのほか作業療法は「気功」これも僕の考えでやってもらうことにしたのですが、左腕に手をかざしてもらい「気」を送ってもらうのです、
不随にはまるで力が入らないということのほかに、勝手に力が入ってしまうという事もあるのですが、勝手に力が入って硬直するのは力が入らないよりもつらいものです、その緊張をとるのにと考えたのがこの方法でした。
最初まるで素人の彼女にそんな力はなかったのですが、そのうちに本当に「気」の送られているのがわかるようになり、彼女の掌も僕の腕も熱くなり緊張がほぐれるようになりました。
なんでもやってみるものです。これはその時限りのものですから、運動能力が改善された訳ではありませんが、力を抜く方法を覚え硬直が始まったときなど、緊張をほぐすのに随分助かりました。
病院のリハビリは体のリハビリより、同じ病気になった人達の集まり話すところとしての意味の方が大きのかも知れません、直る見込みなど全然ない、ただ悪くならないための暇な病人ばかりの集まるところです。
毎日のようにみんな来て、それが仕事のように体調のことや見あたらない人の消息といった世間話しに時間をつぶすのが日課でした。
最初はタクシーで、そのうちバスで行けるようになりました。お昼に病院を出て家で食事をします。食事の支度は自分でします。妻が働きに行き、朝昼夜の食事の支度が僕の仕事です、半年そんな暮らしをしていました。
なんとか僕も働きに出なくてはと思い始めて、障害者が生活していくための訓練施設・市営の緑風荘に入所させてもらうことができたのは、発病からちょうど一年が過ぎたころのことでした。
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by takaryuu_spring | 2007-02-13 22:21