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脳卒中体験記・・4

二十一号室
迷路のよな病院の通路をくるくるまわって着いた病室、「ここがこんどのあなたのベッドよ」と指定してくれた看護婦さんは天使のようにやさしく美しく見えました。
六人の相部屋でしたが、窓際の陽のよくさしこむ南側で空の青かったこと、楠木が手の届くほどに枝をはり、車の騒音も窓から飛び込んでまいります。
「生きているなあ」とつくづく実感しました。
高酸素治療と検査の何日かが過ぎ、最後に脳の血管撮影をすることになりました。これは、大腿部からチューブを血管内にさしこみ、それを脳までさして行き、脳内に像映液を送り、血液の流れ具合を見るというものなのですが、太い血管のなかにチューブ通して行くので、検査終了後の出血をおそれ、チューブをさした方の足は動かすことを禁じられます。右足にさしましたから、動かすことのできる方の足を動かさないようにと、ベッドにしばられてしまいました。
左は動かない、右は動かしてはだめ、という状態で寝る一晩の長いこと、長いこと、動かずに寝ることのこんなにも苦しいものとは思いませんでした。
そして全部の検査の結果として、「脳幹部の血管が詰り、ここの部分の脳細胞が死んでしまいました。車椅子の生活は覚悟して下さい。左手はたぶん使えないと思います」「それに血管はみんなひどい状態で、まだまだ詰まる可能性は大です」と、いかにも気の毒そうに、その所見を言うのでした。
「それって本当に本当、歩けなっくて 手も動かないって」と聞きなおしますと、「歩くことは装具をつけてなんとかできるようになるとは思いますが、手の良くなった例はあまり知りません。でも脳のことは実はあまり解っていませんから、絶対とは言切れませんが、「最初の三ヵ月が勝負、早ければ早いほどリハビリの効果はあがるようです」と言われました。
「妻はその言葉の最悪の方を信じ」そんな覚悟をきめ、僕は反対に「絶対動くようにしてみせる、」となぜか意気込んだくらいでした。

半身不随というのは、なってみないととても理解できないものです。骨に筋肉の付いた半身と、その反対には水のいっぱい入ったポリ袋が骨につけられているという感じです。
ひょろ長く縦に並んだ骨の隣にポリ袋を付けたまま、一本足で何か動作をするということなどとても無理なのです。
体を二本の肉の棒と考えてみてください、一本は三十五キロの性のないただの肉のかたまりです。生きたもう一方の枝肉が何かをしようとしても、どんな動きもできないのです。
寝返りもうてず、食事も一人ではとれない状態の時には、動くことができるようになるというだけでも有り難く、歩けて手も使えるなんて夢みたいな「おまけ」とぼんやりした頭には思われました。
寝たままで、食事を口に運んでもらうのは、あまりおいしものではありません。タイミングが狂いだすと食べた気などしません。

クリスマス
12月24日、手足はやはり動きませんが、ポリ袋のようになっていた胴体に、少し性が入ったのでしょうか、小水は横をむいてなんとか自分でしびんにとれるようになり、ベッドも起こされ、自分で食事を食べることもできるようになりました。
今日はクリスマスです、昼食後いつものようにマンガを読んでいると、「高山さんですね、今日からリハビリを担当する中村です、よろしくお願いします」と元気の固まりみたいなおねえさんが入って来ました。
「どのくらい動きますか?自分で動かしてみてください」と言われ「手はまるで動きません、足はほんの少し動きます」と答えました。
「はい、では始めます、と足をかかえて一、二、一、二」と号令をかけながら動かしてくれます。ほんの五分ばかりでしたが、なんとなく自分で動いているような気がして、気分がさっぱりしたものです。
いい忘れていましたが、毎日僕の介護をしていてくれたのは、八十になる妻の母、千代さんです。自分の母にもしてもらったことがないような、下の世話までしてもらいました。ほんの四年ほど前まで病院で介護の仕事をしていただけあってなれたものです。
どうやってリハビリをやるのかと、その千代ばあさんの目が光ります。そしてその日からは、時々おばあさんに同じように足を動かしてもらいました。
それでも、この病室を離れるのはまだ高気圧酸素治療室に行くときだけです。この頃、こんどは排便に悪戦苦闘の毎日でした。
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by takaryuu_spring | 2007-01-31 22:04

脳卒中体験記3

処置室
それにいったいここは何という部屋だ、まるで倉庫だ。点滴のハンガーや、酸素ボンベ、わけのわからない器材が、雑然と置いてある中に、使いものにならない器材のように、置かれていました。急患で運び込まれた僕は処置室にいたのです。
ナース・センターの横、看護婦さん達が忙しそうに出入りするなか、僕の心電図の音がピッ・ピッ・ピッ・と鳴っているのが聞えます。僕は使えなくなった道具のように倉庫みたいな処置室に忘れさられてしまいました。
胸には心電図のコード、左手に点滴のチューブ、そして尿道に管を通して尿袋が装着してあります。
時々点滴や尿袋を見に来てはくれますが、どの看護婦さんもなにも話してもくれず、恐いおばさんのように思われました。
土嚢のよになった体は、自分で寝返りをうつこともできません。
左肩は、だら~んと布団に落ちてしまい、左足は左にたおれ、指が上を向くことはもう決してないように思われます。目の焦点も合わず、見るものはスリガラスを通して見る景色みたいにぼやけています。
「でも生きているのだよなあ」と思った時、今おかれている自分の立場が急に思い浮かびます。
「どうすりゃいいんだ。こんな体じゃあ仕事はできそうにないし、トラックや機械の支払いはいっぱい残っているし、それに保険も全く入っていない」ぼんやりかすんだ頭で考えても何の答えの出るわけではありません。いやさえわった頭で考えても同じなのですが。

見守る妻は「自分の体のことだけ考えて!」あとは私がなんとかするから、と言ってくれるのですが、一人娘の朋子は来年中学入学なのです。
名案もなにも全くどんな可能性もないように思え、無責任ですが考えることを止めにしてしまいました。
「本当に粗大ゴミだなあ」と苦笑するだけです。
12日が土曜だったので土・日と病院の業務も少なめ、僕の治療も月曜日からということのようでした。
14日月曜日、今までの治療に高酸素治療が加わりました。
 これは潜水病の治療に使われるものみたいに思っていましたが、流れの悪い血液でたくさんの酸素を送るためにはよい方法なのだそうです。
僕のベッドは移動できるようになっていて、それで一日一回この処置室を出ることができるようになりました。
 暗い処置室を出るとすぐに空の見える通路、どんより曇った冬の空でしたが、薄暗い処置室から出て初めて見る空の明かり、その空を見て涙が出てきて「ああ・生きているんだなあ」と思はれました。
それからは処置室と高酸素治療室への行き帰りが多少人らしく、生きていると実感できるただ一つの楽しみになりました。
12月16日病室が空いたのでそちらに移ってください、ということになりました。
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by takaryuu_spring | 2007-01-30 21:53

脳梗塞体験記・・2

発病から9年たっていろいろな仲間もできました。
今日喫茶ひだまりに行くと、そこで油絵を展示している舟橋さん一行とであいました。
『一歩いっぽ』5号で紹介した加藤さんもきていて、偶然のおそろしさです。
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ああ絵の写真撮ってくるの忘れた。

病院
昼から小便を一度もしていないのです。膀胱がぽんぽん、出るはず、と何度も尿瓶に試みるのですが、なぜか一滴も出ません。下腹を指で押してみると、かちかちなのに尿意もないのです。
 「排尿できないみたいですから管を入れます」と看護婦さん、それからは尿袋をぶらさげた生活になりました。
それと、時とともに今まで動かすことのできた手も、だんだん動かしにくくなってきます。必死で握っていたベッドの手摺りから手が落ちたのは、午後12時を回った頃だったと思います。

 「看護婦さん、手が、手が動かなくなる」と悲愴な訴えに、困ったような顔で「明日ね、明日、先生がみえるから」とつれない返事、あとはなるべく僕と目を合わさないようにしているようでした。
それでも、まだ明日目が覚めたらきっと治っている、それとも今日のこのこと自体夢に違いない、と自分にいいきかせながら寝ていました。
平成9年12月11日のことでした。

12日朝6時、手も足も動くよなと言聞かせながら、おそるおそる目をあけてびっくり、顔はつっぱった感じでしゃべることもできません。
手足だけでなく腰も胴も砂袋みたいに重く、肉体の一部であることを拒否しているように動こうとはしません。もう僕の意思では、どうにもならないものと実感できました。
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by takaryuu_spring | 2007-01-25 18:40

脳梗塞僕の体験記・・1

ズズズ…………杭打機の轟音が、常滑の埋立地をゆりうごかします。暖冬とはいへ師走の海風は身にしみる。
ウ~ゥ~役場のサイレンが昼を告げると、怪獣のような重機のエンジンが一斉に止まり、嘘のような静寂があたりを包みます。
今までゆれていた地面、「あれ、まだゆれている・・・地震じゃないよね」
 これが、僕の脳梗塞の始まりでした。
風邪でもひいたのかな?今日のところは切りのよいところで止めにして、早めに帰ろう思ったものです。

三時頃には後片付けも終わり、帰途につくことになりました。
「今ならまだ渋滞には巻き込まれない。早く帰って風呂に入りビールでも飲んで寝ちゃえば、明日には治っているに違いない」と思っていたのですが、不景気とはいえさすが師走の大都会名古屋、そうは問屋がおろしませんでした。
 常滑を出て阿久比から乗った知多半島自動車道も、名古屋が近づくにつれ車は増え、とうとう渋滞につかまってしまいました。

 多少気分が悪かったのですが、我慢しかありません。助手席で膝をかかえ「やっぱり変だ、着いたら病院だな」と思い始めていました。
結局家に着いたのは、日もとっぷり暮れた六時半、さあ着いたと、トラックを降りる段になってびっくり、トラックから転がり落ちて後は体を起こすことも出来ず、転がったままでした。
相棒もこれには仰天、急いで家内を呼びに走り、ワゴン車をもってきました。
行きつけの病院に事情を話し、着替えて行くつもりだったのですが、もう着替えることもできない状態で、しかたありませんから、どろどろの作業着のまま病院に搬入されました。

タンカにのせられると激しい吐き気、タンカの上で吐きました。昼食べた物がまるで消化されずに出てきます。
症状を聞いてこれは大変なことだ、体ではない、頭だということで、勝ちゃん、茂さん、千代ばあさんら、身内が呼ばれて参ります。
MR検査の結果出血はしていない、まず死ぬこともない、ということでみんな帰されました。

この時まで脳梗塞がどんなものか、誰も理解していませんでした。“脳出血ではない”というだけで、それはかえってどうしようもないことのようです。
脳卒中は脳が死でしまう病気ですが、脳出血と脳梗塞があるようです。
脳出血は血管がパンクして、その圧力で脳細胞が死ぬのに対し、脳梗塞は血管が詰まって、脳細胞が酸素不足で死ぬのだそうです。
どちらも高血圧とか高コレステロールとか、原因は同じようなのですが、脳出血は、一刻も早く手術して、脳細胞に圧力がかからないようにしなければならないのに対し、脳梗塞は反対に血流をよくして、脳細胞が酸素不足にならないようにしなければならないのです。
それで、この日は血液をさらさらにする薬の点滴をうけて、あとは絶対安静に、命には別状ないからということで皆帰されたわけです。
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by takaryuu_spring | 2007-01-24 21:01

ジュゴン

パプアニューギニアだったでしょうか?ジュゴンの肉を食べることが許可されている国があります。アラスカでは鯨を捕獲して食べてもいいことになっているのでしょう。
今日は海獣の肉を食べるという問題ではありません。

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パプアニューギニアでは1メートルぐらいの砂の崖の上に椰子が生えているのだそうですが、このところの地球温暖化の影響で、海面が2センチ上がり、そうしたら1メートルの崖が崩れ始めて椰子がどんどん枯れていっているのだそうです。

それで地球の温暖化を止めるためにできることを皆で真剣に考えているとか、
工場などない国です。CO2のほとんどは車の排ガス、それも車といったら日本車ばかりなのだそうです。それで排ガス規制前の中古車の輸入は禁止したそうです。

また国全体ではジュゴンの保護を進めているといいます。これが風が吹けば桶屋が儲かるというものなのです。

ジュゴンはアマ藻という海草を食べるのだそうですが、それはマングローブの林のの中でよく繁茂するのだそうです。

ジュゴンを保護するために必要なことが喫水域の環境の整備で、それが酸素を作り出す助けにもなり、国土を守る手段にもなるということで、小さな島国にとっては切実な問題のようです。
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by takaryuu_spring | 2007-01-20 22:31

昔、僕の子どもの頃は、クラスに一人二人は喋るとき「たったった・・」などとドモる人がいたものですし、発言を求められると顔を真っ赤にして何も言えない人がいました。

また、国会の答弁を聞くと、「え~、うん~・・・」と話のほとんどが意味のない音だったり、野球の解説者でも、「なんと申しましょうか・・・」とよく言う人がいたりしました。

普通に使っている日本語は話し言葉ではではなく、話を聞く方が相手を理解しながら会話が成り立つという、話す人と聞く人が対等な立場で会話が成り立つ言葉であるため、不特定多数の人に話をすることは、話すことの専門家でも原稿がなくては上手く話せなかったのだと思います。

解説で、立て板に水の解説の元祖は、古館一郎しでしょう。
彼は日ごろから、見てすぐ口に出るように訓練していたそうで、それで瞬時に言葉を出せるようになったといいます。
今ではほとんどの人が、本当に口から先に生まれた人ばかりになっていて、話の下手な人は「はっきり言わなくてはわからないがね」などとおこられたりします。
昔は口下手な人の方が多くて、目は口ほどに物を言うとか、阿吽の呼吸とか、口から出ない言葉が結構通用していました。
この喋らないで通じる言葉こそ日本の誇る言語だと思います。

英語など、口から泡をふいて喋り捲り、それでも伝えられなくて、大げさなゼスチャーが必要なのです。日本人でも最近やたら無意味に身体を動かしながら話をする人がいますが、何のために動いている手分からないと、話の内容も薄れてしまいます。
日本語に必用なのはゼスチャーではなく、言葉も動きもない「間」なのです。

日本画は西洋の絵画に比べ何も描いてないところが多いし、生け花でも空間を意識して生けます。話を文字にした本にしたものでも、縦書きの本には空白が実に多い。

日本の文化は「何もない」ということの意味を知っている文化だと思います。この「間」を理解できない人のことを 「まぬけ者」 というほどですから、これは確かです。
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by takaryuu_spring | 2007-01-20 05:17

日本教

よくは知りませんが、日本古来の信仰は汎神論的に色々なものを神様にしてきたのだと思います。
仏教では、一切衆生悉有仏性といい、また縁起の法の上に万物が存在していると、説いていると思うのですが違うでしょうか?
日本の汎神論の上にきた仏教はそれとうまく調和して、日本的な宗教になりました。
そこで、一切衆生悉有仏性と、縁起の法を一体化して「お陰さま」という言葉で表現することを発明しました。

天気がよくても、病気が治っても、物事うまく行っても、なんでも「おかげさまで」ですみますが、おかげさまに実態はないのであります。
では本当にないのかというと、色々の人や物、天気、場所など様々なおかげが確かにあって、だから「お陰さま」なのです。

この「お陰さま」こそ究極の仏教の解釈だと思います。
「お陰さまは」ただただ感謝の対象であり、恨みの対象にはなりえない事柄です。
感謝するということは「お陰さま」が働いたから生まれる感情で、「お陰さま」がないところに感謝の念も起こりません。


喜びとは、共振です。
花を見てきれいだと思えるのは、花と自分の心の波長が一致するからです。
いい音楽聞いて心が振るえるのは、音を通じて感動するからです。
ものを食べて美味しいと思う、触れた感触が頬ずりしたくなる、など感覚でそのものものと、共振することも勿論できます。
また誰か人が喜んでくれたなどというときは最も幸せを感じるほど強く共振している瞬間になります。

聞かせ、聞いてもらえるから、見せて見てもらえるから、つまり人間の行為の目的には、相手がいた方が定まりやすいといえます。

それは人である必用はなく、犬でも植木でも庭石だって構いません。
究極自分は他人なのですから自分自身と言うことになり、そうなった時人間は完成されたことになります。

そうなった時、つまり、自分の全てを使って、自分が喜びに打ち震えることになります。
その状態をかげで演出してくれているのが「お陰さま」というわけです。

僕はそのように頭で考えます。残念ながらまだ頭で考えている段階でしかありません。
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by takaryuu_spring | 2007-01-19 00:21

日本

ブログを更新しなかったのには訳があります。
イスラムに対し子どもみたいな説明でしたが、きっと日本人は知らなすぎると思ったので変えずに載せていました。
そんな馬鹿な、でもそうなのかでもなんでもいいのです。「どうなのだろう」と相手を意識して考えてもらいたい、そんな目的で同一掲載にしていました。

僕は日本人です。日本人とは凄い人種だとつくづく感心する昨今です。感心している部分が現代ではないことが心配ではありますが、日本語が通用し漫画が理解されていればそれで充分かもしれません。

日本語と漫画に共通点があるのですがおわかりでしょうか?
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by takaryuu_spring | 2007-01-17 21:57

江戸時代的

土曜日のNHK教育テレビで、子供向けにニュースを解説する番組があり、僕の頭では丁度いいのですが、そこでアフガンから中近東までの現在を説明してくれたことがありました。

先進国の目的は石油の利権、石油で実際潤うのはごく限られた人で、広大な土地に多くの民族が住んでいて、今でも多くの人にとって現代的な生活など縁がないということ。

各民族間の勢力争いは時代で言ったら日本の戦国時代に近く、風習も封建社会そのままであること。

アフガンについては、もっとひどい先進国の都合で作られた国家であるとの説明をしていたと思います。

イスラム教は布教をすることはしないそうで、僧侶や牧師、宣教師という職業もないのだそうです。

なにを信じ、どのように振舞うかは先輩信者の人格をみてコーランに従う。
それで世界的な宗教になっているのですから、凄いものです。

ネットで調べて、短くイスラム教を紹介しますが、なるほど今これを保っているとすれば、日本の江戸時代です。

日本に鎖国があり、それこそが日本であると思うからこそ、時代劇がすたることがないように、イスラムの世界の中にも捨てがたい良いところがあるのに違いありません。

日本のイスラム感は西洋経由、つまりキリスト教の検閲を受けて入ったもので、日本人のイスラム教への偏見はその辺に存在するのだと思います。

以下紹介

イスラム教は、7世紀はじめに、メッカの名門の出身であるムハマド(マホメット)によって開かれました。ムハマドはアッラーの神の声を聞くことの出来る預言者として、「アッラーがただ1人の神であり、宇宙の創造主である。」 というイスラム教の教えを広めました。
しかし、そのころアラビアの人々は多神教を信じていたので、ムハマドは迫害を受け、西暦622年に少数の信者を連れてメディナへ移住しました。ムハマド達がメディナへ移住してから10年余りの間に、アラビア人のほとんどがイスラム教を信じるようになりました。

『イスラム』とは、アラビア語で 「平和であること、(アッラーに)絶対におすがりすること」を意味しています。

アッラーがムハマドにくだされた教えを記録したものが、イスラム教の聖典である「コーラン」です。

イスラム教徒は今でもこの「コーラン」に書かれている教えを忠実に守って生活しています。 
イスラム教は、教徒の大部分を占めるスンニ派と約1割の教徒からなるシーア派の二大宗派があります。

サウジ アラビアの人々の大部分はスンニ派です。
この2つの宗派はスンナ(ムハマ ドの範例・慣行)のとらえ方に大きな違いがあります。(親友の言葉か、親族の言葉か)
コーランは、イスラム教の聖典であり、イスラム教徒は
コーランに書かれている教えを忠実に守って生活しています。
 次のような5つの事が書かれています。
①シャハーダ(信仰告白)
②サラート(礼拝) 
③ザカート(喜捨)
④サウム(断食)
⑤ハッジ(巡礼) 
コーランはアラビア語 で「読まれねばならぬ本」という意味を表している。

コーランはアラビア語で啓示されてて、外国語に訳されたコーランを認めない。コーランの本当の意味はアラビア語でしか分からないからである。

コーランは、最初から最後まで多くのイスラム教徒に暗唱されている。コーランの章句を暗唱してしまうのは、ほぼ12歳までの時期である。
☆イスラム教徒は、何事もアッラーの神の御心のままという運命論(天命)を信じています。また、来世(人間は死後に復活し、善人は天国で祝福を受け、悪人は地獄で苦しい責めを受けるという教え)も信じています。イスラム教徒の日々の生活は、全て天使によって逐一神に報告されている。その為、イスラム教徒は、どんな誘惑の中にいても信仰を貫くことが出来ます。
イスラム法(シャリア法)
1、結婚と男女交際
・小学生以上の男女が同席することを認めない。また、女性は親や夫以外の男性と同席してはならない。 
・男子が女性の顔を正面から見ることの出来るのは婚約が成立してから。

2、飲食物・衣服に関する規定
 ・禁じられている食べ物…自然死をした動物、豚、首を断ち血を抜く方法以外    で殺された動物。
 ・禁じられている飲み物…アルコールを含む飲料全て
 ・服装…肌を露出するもの(手首、顔以外の肌を露出してはならない。)

3、イスラムの刑法
 ・イスラム教においてコーランに規定のある重大犯罪は次の5つである。
  ①殺人の罪…原則として死刑。この場合被害者側から復習が許される。
           死刑は公開、休日に広場で首を切る。
  ②強盗の罪…はりつけの刑。
           又は、右手と左足のように反対側の手足の切断。
  ③窃盗の罪…右手首の切断(公開処刑)。
  ④姦淫の罪…貫通した男女は、証人の前で100回の鞭打ち刑。
  ⑤姦淫をしたという偽りの告発をした罪…80回の鞭打ち。
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by takaryuu_spring | 2007-01-12 22:02

春をさがして

昨日の雪は幻のよう、どこにも残ってはいません。
今朝は曇りではじまり、そのうち小雨、そして降りはじめた雨もあがり、僕は春を探してみようと出かけました。
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昨日雪を咲かせていた、雪柳ですが今日見てみるとカイガラムシが花のようについています。
木も環境が悪いと弱り、弱ると免疫力が低下して虫の被害を受けやすいとか、まあそれにしてもたくさん。
カイガラムシを調べてみました。介殻虫と書くようで昆虫です。若い時はうごいていたようで、背中に老廃物や余った栄養をくっつけるのだとか、虫の部分から染料が、背中につけた部分からは高級なロウが取れるそうで、養殖している国もあるそうです。

昨日明日まで休みという張り紙を見たのに、明日から営業と勘違いしてまた出かけてしまいました。
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一閑と書いて、「ひととき」と読みます。1階はギャラリーで喫茶店は2階にあります。僕は手すりにしがみついて上り下りします。
螺旋の階段は直線より登りやすいものです。
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もう枇杷の花の咲く季節なのですね。枇杷の蕾は風邪をひかないようにビロードの服を着ているよう。
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隣の梅の木には今朝降った雨の雫が花のようでした。

明徳公園の方に行くと、ふきのとうのような変わった形の茸がたくさん生えていました。触ると皮のよう、大きなものを杖で触ったらプシュ・茶色のほこりが噴出です。「これきっとホコリタケだ」と思いました。
でも調べてみたら間違い、土栗という茸でした。夏から秋に生えるとありましたが、やぐるまきくが咲いていたり、スギナが出ていたり、季節めちゃめちゃだからこれもありかも。
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by takaryuu_spring | 2007-01-08 16:55