<   2006年 12月 ( 26 )   > この月の画像一覧

目を覚ますと、抜けるような晴天です。
本当は海が見たいのですが、海より大きな空をいっぱい見てみようと思いました。
ラジオが、東海地方の晴天を告げ、その後に「現在の気温は1度」です。
のんびり空を眺めていられるような気温じゃありません。
1時になって、そろそろ気温も上がっているに違いない、と外にでました。
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住宅街のここら辺りは、上を見れば電線ばかり、少し歩くとカラタチが枝の先に残っていました。
そのむこうには実生の橙でしょうか、カラタチに負けないほど立派な棘の木には大きな実がなっていました。
橙は実がつき、黄色くなって、春になると又緑に変身、そして丸々2年経ってから採るのでしょう。
出たついで、ダイエーに行くことにしました。
バスを乗り継ぎ、年の瀬バスは遅れがちです、
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引き山はバスターミナル、色々な植え込みもあります。
このところの強風で山茶花の花びらが地面を染めています。
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空には月も出ていました。
遅れてきたバスが止まるとみえたとき風が強く吹き、
帽子が飛んでいってしまいました。
追いかけ、杖ですくって、ハアハアいいながらバスに乗り無事ダイエーに。
カメラのバッテリーが寿命みたいで、聞くともう取り寄せ商品、「5000円です」
なんでそんなにするのさ、しばらくこれで我慢して新しい買おう、明日の結果次第です。
バス停には人が待っていて、ラッキー。
何しろ1時間に1本しかないのですから。
でも時間が来てもバスは来ません。
もう10分も過ぎているのです。
「まだ来ませんねえ渋滞かしら」「先に出たのじゃ」「事故かしら」
待っていた人は僕の言うことを全部否定します。
じゃあなぜこないんだ??
結局渋滞で遅れたそうで、20分遅れでやってきました。
乗客は全員無料パスの全部で4人、バスの本数が減るのも仕方ありませんが、
「お先に乗ってください、私は足が悪くておそいから」
僕もとはいえないほど悪そうで、お先にと乗り込みました。
来ない理由を全部否定してもただ待つ、
車を持たない我々にはこれしかないのです。
答えていてくれた彼曰く、「天気のいい日ならいいですがねえ・・・」
みんなとっても気長です。
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by takaryuu_spring | 2006-12-30 19:50

偉そうですが

今年も残りわずか、新しい年がもうそこまで来ているのだ。
除夜の鐘が鳴れば年が明ける、寝ていれば知らない間にあけているのですから、考えれば考えるほど不思議な一瞬です。
僕たちは明日を想定しないでは生きていられないようです。
明日への期待とは今日の後悔のことも多く、一休禅師の浮かれていていいのか「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」だぞという言葉を思います。
といって何も変わりようはないのですが、味わい方は変えられます。

脳卒中の高次脳機能障害の中に“失認“とか”失禁“というものがあります。
失禁は、自分を無視して自分の身に起きることです。それは、違ってであれ自分で認識でき、でも人には気づいてもらえません。
失認は、反対に、そのことが無いように自分も無視して起きていることです。これは自分ではなんの問題もないのですが、人から見たら変なことなのです。
説明しても分かってもらえないことですが、軽くですが両方の障害を持っています。
その他多少の構音障害もあり、すぐ改善された障害に、失語症も体験しましたから、失語の不思議もよく理解できます。

何が言いたいか、というと世の中と我とは自分にその気がなければ関係のないことだということです。偉そうに言い換えれば“天上天下唯我独尊”ということでしょうか。“我が自分を認める”です。
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by takaryuu_spring | 2006-12-29 23:13

春と修羅


宮沢賢治は頭で悟っていた人だと思います。
その彼に妹は「私はこれからどこにいくの?」と聞きました。
その答えを言えなくて、考えついた答えが、これです。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

僕は自分の命について確かにその通りだと思えます。
「風景やみんなといつしよに」です。
そして「いかにもたしかにともりつづける」なのです。

その彼に妹は「私はこれからどこにいくの?」と聞かれたとき、
そのようには思えていなかったことが苦しくて、「春と修羅」なのだと気付いたのだと思います。

僕の母は86歳になります。
いつも早くお迎えが来ることを願っているのですが、体調が悪ければ病院に行き診察を受けます。
願っているのは健康で、体に悪いことをしたことがないので、まだまだお迎えが来ることもありそうにありません。
それより僕は、行き先の決まっていない「生きている」という乗り物の終点を知ろうとしないで、弁当を食べているような旅をなんとかして欲しいと願うばかりです。
「私は無神論、死んだら海にでも・・」そういう問題ではないのに、妙に確信をもって頑なのです。
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by takaryuu_spring | 2006-12-28 23:24

馬鹿な試し

変な実験です。
意識して生きているということをしてみようと考えました。
意識して息を吸い吐く、耳に入ってくる音を全部聞こうとします。座っている感覚、肌に触れている着物の・・・、5分もそれを続けていることはとても意識が続きません。
要するに無意識でいられるからラジオを聞くことができ、本が読め、お酒だって飲めるのです。
全てに意識を配っていては、何一つできないとすぐ分かります。
つまり自分の意思で生きている部分はいつもほんの一部分なのです。
おかしなことなのですが、「無為に人生を送るのか」と、無意識に人生を送ることを良いことだとはいいません。
一体何を意識して生きることが正しい生き方なのでしょう?
宮沢賢治は春の修羅の中で、交流電気の電灯の瞬きというように人間の存在について表現していたと思います。
生きていることと、生かされているという相互の交流が人間なのだと思います。
我が生き、仏が生かしているそれが人間という存在なのでしょう。
頭でかなりはっきりイメージできるのですが、ではどのように生きることが望ましい生きかたかということになると不明というかいつも怠惰に落ち着いてしまうのです。
そして「煩悩具足のわれだからしかたないでしょう」と言い訳をするわけです。
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by takaryuu_spring | 2006-12-27 22:46

因果応報?

如是相・如是性・如是体・如是力・如是作
如是因・如是縁・如是果・如是報
如是本末究竟等
これを十如是といいます。
因縁果報は良く知られている言葉です。
その前に、物事に相があって、性質があり、形があって、それが持つ力が、そして作用もあります。という説明がお経では書かれています。
そして後に、その繰り返しで世の中が廻っているのです。というのが輪廻の思想だと思います。
此の中で、因果応報とか因縁とか因果とか途中を切ってよく使われるのですが、それは多分に誤解を招く使い方だと思います。
最後の果と今の相との時間的長さは、瞬間のこともあるでしょうし、不可思議というような時間のこともあるのでしょう。
即効的に因果関係があることのほうが少ないのです。
数字を調べてみると、実に、零・一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・禾予・穣・溝澗・正・載・極・恒・河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数など、果たしていくつ0が付くのでしょう。その上にも無限とかもあるのでしょう?
仏教が、そんな時間を想定しているのなら何があってもおかしくありません。
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by takaryuu_spring | 2006-12-26 23:16

共有するもの

否定の上に自分の正義を載せる限り
アメリカが原爆を持ってよくて、北朝鮮やイランが持とうとすればそれは「悪」という話が分かりません。
原爆が悪なら自分が率先して破棄すべきなのです。
捨てられないなら、攻撃される恐怖を持ち続けるしかしかたないでしょう。
キリスト教では「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」といいます。
ぼくはそれは傲慢なことだと思います。
相手の「殴りたい」という気持ちを逆なでする言葉ではないでしょうか?
誰も人を本気で「傷つけたい」とは思っていますまい。
できればみんなと一緒に仲良くやっていきたいと思っているはずです。
一つ否定すれば、相手からも否定が一つ出され二つの否定になります。
相手を肯定すれば否定はなくなる。
娑婆のことを此岸といい、浄土を彼岸といいます。
僕は此岸は自分から見た世界、彼岸とは相手から見た世界だというように聞きました。
否定しないことには自分が立ちませんから、否定し続ける人生ではありまあすが、自分の居場所が必用なら嫌いな人であっても隣に場所を作る必要もあるのでしょう。
でも僕は臭を許せないことがあります。
納豆もチーズもクサヤですら許せるのですが、薬が起因の体臭は、僕にとって毒ガスです。息を吸えなくなってしまいます。
口臭も嫌いです、自分の口臭を消そうと仁丹を一箱飲んでしまい、血便だったこともあります。
ただ空気を共有して存在している僕だと思い知らされます。
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by takaryuu_spring | 2006-12-26 00:27

クリスマス

今日はクリスマス。友達の誘いもあって、教会に出かけてきました。
荘厳な祭壇、美しいステンドガラス、ベールを頭にしたご夫人、そしてオルガンの音が静かに響いています。
ではありませんでした。僕の行った教会は名古屋聖書バプテスト教会です。
聖書バプテスト教会の考えは、必要なのは神の言葉の証の聖書だけ、集まる場所さえあればそれでよいという、在家の宗教集団です。
教会内には祭壇どころか十字架も一つもありませんでした。
最初にいまナビゲーターのソフト開発の仕事をしているという、Iさんが洗礼を受ける気になった時のお話から始まりました。
名大で宇宙科学を研究していた頃のことだそうです。
牧師さんに「あなたは、科学ともう一つ信じているものがあるでしょう?」といわれ
「なんですか?」と聞き返すと「あなたはあしたがあると信じて生きてはいませんか」といわれたそうです。
科学は仮説の上に積み重ねられているものだと思っていて、頭で信じられないとなったとき何を信じればいいのかと思ったのだそうです。
子どもや聖歌隊の歌の後の牧師さんのお話では、イエスの生まれた訳と十字架の意味についてのお話でした。
人間どんなに良いことばかりしようと思って生きていても、誰かを、何かを傷つけることなく生きてはいけない存在です。
そのことを日本語では原罪と訳されています。
その罪は自分も同じ人間という存在の人が贖うことは不可能なのです。
神は人の原罪を背負える人としてイエスをこの世に使わされました。
人の罪を背負ってイエスは十字架に架かりましたが、人は人の罪を贖えません。
イエスが神から使わされたものだという証明に3日後に復活されました。
というような内容でした。
その後昼食、初参加の僕は無料、みんなは今日は特別食だからと300円でした。
教会は3階建てで一階が食堂と調理場など、2階がお話を聞いた部屋でした。
食事のメニューは2種類メインディシュはハンバーグと鶏の煮込み、チキンライスにケーキもついていました。
いつもの礼拝の時は200円だそうで材料費にもならないでしょうね。
それに100人近い礼拝者の分を作るのですから大変だ。
午後の催しは、混声合唱、女声合唱、金管合奏、などそれぞれに練習していたのでしょう、発表会みたいでした。
教会内には何台のピアノがあるのでしょう?
僕の目にしただけでも5台ほど、そのほかオルガン、エレクトーン、ラッパですからこの辺仏教集団とは大違いです。
音楽のあと牧師さんのお話がもう一度、最低の人間として生まれたイエスが最高になる、
一番下に自分を置く事ということの意味について話されました。
虐げられたものほど天国に近いということのようです。
また実際イエスが伝道したのはたったの3年だったそうで、彼は何も書いてはいません。
新約聖書の長い記載は旧約聖書の記載での神の証明としてあるのでしょう。
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by takaryuu_spring | 2006-12-24 21:21

後生の大事

後生の大事ということを聞いたことがあるでしょうか?
中学生になると、今まで漠然と思っていた将来に対して、少し現実的に行動し始めます。
最初におもうことは、どこの高校に入ろうかでしょうか?
それは大学に進学するための布石であり、その一段が今後の人生を別けると考えるからです。
大学も良い就職というかなり曖昧な問題を、かなりの確信をもって選択します。
良い結婚、暖かい家族に囲まれた生活、のんびりした老後です。
このへんから先は、昔は子ども、孫、ひ孫に看取られて成仏が夢だったのでしょうが、今はどこで死んでも関係ない「無に帰すんだ」と考える人が多いのかも知れません。
全体を振り返って見てみると、いつも見てきたのは明日のことばかりなのです。
人生最後の目標だけ尻切れトンボで見えていません。
生きているとき、どこで終っても不思議のない人生なのに、行き先無しに生きていることになるではないか、蓮如はそれを「後生の大事」といいました。
蓮如の有名な御文に「朝に紅顔ありて、夕に白骨になれる身・・・」というのがあります。
物理では存在が無になることはありえないといいます。
存在した命です。あったのですから無くなってしまうわけがないのかも知れません。
何教でも命が死ぬとは考えません。
仏教では生まれたとさえ考えていないのかも知れません。
いろいろな条件の一つの遭遇が人間という存在なのでしょう。
僕(我)という存在との遭遇は、命にとってまさに百千万劫難遭遇の遭遇です。
僕の我と、相思相愛に一体化できるかどうかが命の側からみた願だった思います。
百千万劫という時間からみたら一生は瞬間です(もっとも時間など意味がないのでしょうが)。
僕の願ではなく命の側の願です。命とは仏そのもののことです。
僕は仏に期待されて本願の中にいる僕という存在だと思います。
期待されるといっても長生きとか金持ちとか有名ではありません。
命に気付、命を楽しんでもらいたい、ということでしょう。
陽のよく当る軒で猫が目を細めてねていました。
冬はあれこれしないで布団に包まって極楽を決めるのが仏の思し召しと考えを定め、布団にもぐっていましたが、どうも居心地が悪い。
日の明るいのに飲み始めたら明日が頭痛で始まります。
できることをしてそれを喜ぶのでなくては満足しないようです。
なんとも猫のように幸せにはできない人間であります。
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by takaryuu_spring | 2006-12-23 14:03

徳川園2

黒門から日本庭園入場門をくぐるとそこは別世界になります。高低さ5メートルくらいなものでしょう、その斜面を生かして2つの沢が作られています。
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長い沢は森の中をイメージさせ、
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もう一つは料亭からの景色を意識したものです。
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池には錦鯉が泳いでいました。
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by takaryuu_spring | 2006-12-22 18:17

徳川園

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門とお土産屋です
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門の旧とマンション、蓬左文庫の新旧の対比も面白く感じました。
徳川園に行ってきました。あいにく蓬左文庫と美術館は12月11日から休館になっていて、日本庭園を訪ねました。
職員には時期が少し悪いですね、といわれたのですがなんの、やたらに花もなく、大満足の景観でした。
名古屋城からは5キロくらいでしょうか、将軍様が鷹狩りなどの折に途中で休憩した場所だそうで、昔は整備もされていないただの山のような庭だったのですが、デザイン博のときだったでしょうか、有料の庭園として整備され、僕は初めて行ってみました。
僕のやってみたかった職業の2,3番目に庭師があり、その僕から見た合格の庭園でした。
門は昔からありました。門をくぐって正面は蓬左文庫、その右手に美術館があります。庭園は左手の斜面を利用して作られていました。
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途中には東屋もあって夏は涼しそうです。
道はコンクリートではなく、土でもないのですが土のような味わいのふみ応えです。
そういう技術があるのでしょうね。それは障害者にもやさしく、そして木々には小鳥がさえずり、深い山に入ったような錯覚に陥ります。
僕は障害者で無料、値段も見ないで入ってしまったのですが、管理するのには随分費用がいる庭園だと思いす。
公園の上から人口の川が流れていて、とても澄んでいます。下には広い池が作られています。大きなモータの音のするところがありましたからきっとその水は巡回されているのでしょう。
いくところの無い日にはおにぎりを持ってまた来てみよう。
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by takaryuu_spring | 2006-12-22 18:00