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並樹

街の名士
店は道から階段を登った上にある構造でしたから入りにく、最初はとても暇な店でした。そんなころ、最初に来るのはヤクザ家さんや、なんとかという新聞社の記者で、幸いな事に、あまりに暇な様子に見込みなしと思ったのでしょうか、気にいってくれなくてすぐ来なくなりました。
本山が発展し始めたころ、どのような街にすれば良いかということを学識経験者に聞いて街づくりをしたと言います。その結果東京の青山をモデルにということになったようです。
後日「ハッハッハ学識経験者?僕もその中に入っていたよ」とパチプロの卍さんは言いました。
少し上にあったスナックのマスターもいつも自転車に奥さんを乗せて走っていたトランペット吹きの髭のおじさんも、シナリオ作家のおじさんも本山を代表する街の名士でした。
学識経験者の提案で作られた街だったからでしょうか、しゃれたブティクが多い街で、お洒落な女の子もたくさんいて、店長に連れられてよく飲みに来てくれ、フォートレス四谷などビルごとみんなが来て営業会議だか懇親会だか毎日やってくれ、そのうち女の子だけでも来てくれるようになりました。
男性より女の客の方が多いという日も珍しくなり、すると男性のサラリーも増えてきまっす。
ブティクの女の子は成績を強制されるのか、給料の大半を自分の店での買物に使い、派手に見えても大抵その日暮らしの人ばかりです。本山にはいろいろな会社の寮もあって、彼女たちが店に来て喋っていてくれることは、給料を払わないでホステスを雇っているようなもの、ブティクの女の子、若いサラリーマン、学生そして遊び人と店には不思議な空間ができました。
卍さんはいつもネコさんと一緒に来ました。パチンコに勝つと来たのでしょうが、負けることはあまり無いようで、結構毎日来てくれました。
会社員では三菱銀行、日本ペットフード、マルマン、NHK、野村證券、丸紅、ソニー、中京テレビなどの人がよく来てくれました。
どんな人とも話せた遊び人だと思っていた卍さんは、南山英文学部出身のヒッピーの友達もたくさん持つ、ガラス細工を本職にしている芸術家で、本当に本山では有名な名士でした。
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by takaryuu_spring | 2006-09-30 18:13

並樹

勝手に終るなという意見があって、少し飲み屋の風景を延長することにしました。忘れられない人々のお話です。名前は実名ではありませんし、本当の事ばかりでも決してありません。

並樹のお客
卍さん
並樹は桃巌寺の北隣にありました。桃巌寺は今曹洞宗の寺で、織田信長の父信秀の菩提寺です。織田信秀の居城は末盛城で今は城山神社があります。
桃巌寺には弁天様が祀られていて、それで技芸に携わる人の信仰を集めている寺でもあり、その昔黄壁宗だったこともあり小乗仏教の国の僧も修行に来ている何とも不思議なお寺です。
先代の和尚様が寺に祀られている弁天様より、生身の弁天様の方が好きで、人力車で中村の遊郭通いに性?を出し末盛から本山にかけてあった広大な土地を弁天様に貢いでしまったといいます。
昭和35年ころ山の中に、名古屋大学が引っ越してきて、学生の街に、そして地下鉄が東山まで開通してからは気象台などがある本山の北側は自由が丘などの住宅地として発展しました。
今は大いに賑わう本山から八事に通じる道はまだビルもまばらで、今の見付小学校はまだ東山小学校見付分校でした。
本山に地下鉄が通り、北に住宅地南に大学ができ、覚王山日泰寺と東山公園の間の本山もつながり、ここに松坂屋ストアー・銀行・パチンコ屋などもできました。
でもまだ並樹ができた頃には、向かい側は竹薮で、雉も住んでいたし、夏に蛍を見たこともあります。
少し下にあった建物は昔ラブホテルで、そこで心中をした人が出てホテルは廃業、会社の寮になっていて、そこの住人が客でしたから彼らの言うには幽霊が出ると気持ち悪がっていました。
本山には新世界と本山会館というパチンコ屋があって、本山会館にはまだスマートボールというガラス玉を打つ悠長なゲームが残っていました。
これはパチンコのように忙しいものではなく、玉突きのようにガラス玉を打ち出し、ポケットに入れるゲームで勝ってもそれほどの儲けにならない代わりに、少しのお金で充分楽しめるものでした。
並樹を始めたころ僕もよくパチンコ屋に行ったものですが、そこに必ずいるヒッピーの風体の人がいて、開店してしばらくすると彼が店に来るようになりました。
かなり頻繁に来て、大学関係者ではないということで、「あの人は何者?」と客の間で話題になり始めまして、何時行ってもパチンコ屋にいるから「パチプロ」だとぼくが断定してそのように紹介する事にすると、「そうそういつ本山会館にいつでもいる」と納得してくれました。それが卍さんでした。
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by takaryuu_spring | 2006-09-28 23:17

酒9

三月のようやく日差しも春めいてきた日曜日の天気の良い日でした。行き先は大体しか教えてくれず彼について走ることになります。
車二台を連ね中央道を走る、トイレは大丈夫かと念をおして入った恵那山トンネルだったのに十分もすると「うんこ」と子供が言い始めたのには弱りました。
ここはトンネルで止まることは出来ない、このトンネルは日本で一番長いトンネルだからまだ三十分ぐらいはかかる、どうしてもしたかったら車の中でやるしかないと「パンツの中でするように」といいましたが、そう言われるとなかなか出来ないものらしくトンネルを出て「どこかに車を止めようか」と言った時にはもう引っ込んでしまった、と言われ拍子抜けしたものです。
トンネルを出るとすぐに飯田に着く。ここが第一目的地、駅のすぐ前にある大福というそば屋だ。そこの亭主はなんどか小原さんと一緒にうちの店にも来てくれた人だったが、全国的にも有名な店なのです。
その店の二階を借り切ってそばを色々頂く。その年にとれた新蕎・少しねかせたもの、そばがき、そば雑炊どれも引きたての打ちたて作りたてが出されます。新そばは少し若草色の淡くみどり入ろの味のするものでした。
酒は信州真澄の大吟醸。この酒こそ、いまある旨い酒のルーツだと本で読んだことがあります。九州の美少年、北陸の万歳楽、雪中梅、天狗の舞いなどの銘酒の杜氏も、この真澄で酒を造っていた人たちが造った酒だったと思います。そばに冷や酒は実によく合う。
少し休んでから又中央道をのぼって駒ケ根、ここでロープエーに乗る何合目か知らないがそこは一面の雪景色だった。
その景色の良い所を選んで我々を座らせておき、彼はきれいな雪を取ってきて湯を湧かした。その湯で抹茶を飲もうという趣向なのだ。
重い荷物と、何千円もかけたロープエーはただそれだけのためのもので、銀世界で飲む抹茶の味もやはり格別でした。
そしてまた来た道をもどり、こんどは山の中に入ります。
山と山の間から南アルプスの見えるところに客の一人も来そうに無い洒落た喫茶店があって、我々が行くとやはり驚いたようにコーヒーをいれてくれた。
「ここはちょとのつなぎ、でも良い景色でしょう」と彼は言って自慢そうだった。

少し日の傾きかけるのを見て、もう一度さっき来た方角に走る。中央道をおりて飯田の町を見下ろす所に馬場があり、その横に洒落たレストランがあった。客の一人もいないのを確認して、店の中の灯りを全部消してくれと彼は店主に頼んだ。
「ここからの、今の季節の、この陽が沈む頃の南アルプスが最高なんだ」とさも満足そうに言った。
刻々と色を変えていく南アルプスの山並みはそれは見事で、その赤く染まっていたアルプスがねずみ色になった時、こんどは飯田の町のネオンが光始めます。「もうみんなこうして一緒に来ることもないんだよな」とぽつんと言う彼に本当に有難う、僕の一番好きな方法で送別会を開いてくれてと感謝した。

まだまだもうすこし働かねば、長持ちするには飲まない仕事を。「一度体を鍛えなおさなくては」とこんどは肉体労働を選びましたが、五十を前にしてからそんなことをすることは体が許してくれませんでした。
一見健康そうな、太陽の下での肉体労働は、その通り体をこんがりとスリムにはしてくれましたがそれは見てくれだけの物、その内面は腐食した配管の中をどろどろの血液がつまりそうになりながらどうにか流れていたのです。
どろどろに濁った血液の流れる体を、肉体労働でスリムにすればどんどん濃い血液になりますます血管にはコレステロールが付着してとうとうつまってしまいました。
これで僕の飲酒人生は終わり。
でもおもしろかった。

脳梗塞で半身マヒした状態で酔うと、マヒした側も酔う訳ですから当然立ってもいられなくなります。酒をやめて久しい身には二三合の酒でも充分そんな状態になっていますからよくよく気をつけないと危なくていけません。
記憶の中の自分は同じ自分でも、頭も体も以前のものとは違うことをよく認識しなくてはいけません。


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by takaryuu_spring | 2006-09-27 22:42

酒8

酔っての議論はいつも楽しく際限もないものです。何も知らないのに酔った勢い、専門家を前にいっぱしの大学者になったみたいに意見を言います。脳細胞が媒体の上の分子のようにフリーになっていて、固定されない色々な考えがとめどもなく浮かんでくるのでしょうか。しらふではとても出てこないような考えが、どん出てきて、かえって専門家の参考になったり。
奇想天外な意見、本当に自分がそんなことを考えたのかと後で驚くことはしょっちゅうです。そして羞恥心も多少薄れ、自信は増大しますから思いきった、間違っている意見でもへっちゃらで話せます、これは飲酒の功罪だと思います。そしてそんなことがあるからお酒が楽しくてやめられないのです。
話題はいつも極めて多岐に渡ったため、学生にとっては自分の専門外の知識をかなりつっこんで考える機会が得られ、幅広い、人との付合いと、物の考え方を身につけることができます。
 
僕にしてみれば、飲みたい時に飲みたい人達と飲み代の心配をしないで飲めるのですからこんな幸せはありませんでした。

ところがバブル経済は学生にきれいな服装と車を与え、みんな車を持ち、きれいな服を着るようになりました。
コンパなどでの強制や一気飲みも、新聞などで批判されることが多くなり、その結果以前のように馬鹿酒は飲まなくなりました。
車に乗って帰ることが前提になりますから、飲み明かすことなどうんと少なくなり、今までの飲み代はガソリン代や服を買う時代に変わりました。同時に団体で行動することも少なくなり、個人単位のごく少ない気の合った同志でしか飲むこともなくなったようです。
それは畢竟話題を平凡ないつもしているものと同じものにし、延々と埒もなくするような話はなくなりました。
一度そんなになると客層ががらりと変わってしまい、なにをやってももう盛り上がりません。一緒に騒いでいた連中も残っていましたがどうも浮いてしまい、ただの馬鹿としか映らなくなってきます。
そんなとき僕の飲みすぎの体に少し変調も現われてきました。酒が弱く朝まで残り、もう飲み屋も限界だと感じたとき、本当におもしろくなくなってしまいました。商売が好きなのとは違って飲んで騒いでいることが好きだったのですから。

「もう店をやめる」と言うと最後に僕の招待を受けてくれと言って、床屋の小原さんがとても素敵な演出をしてくれました。誘われたのは常連中の選りすぐり最後の常連でした。
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by takaryuu_spring | 2006-09-26 18:54

酒7

土筆採りももみじ狩もお昼には弁当だったり、バーベキューだったりしましたが最後は飲み屋でパッと飲んで終了です。
お客さんと他の店にもよく飲みに行きました。店が引けてから行くのですが、飲んで店を出たらラッシュが始まっていた、などということもあります。「おやすみなさい」と別れた客の新聞屋さんと、白みはじめた帰り道で「おはよう」と挨拶することもよくありました。
スナック芸というのが色々あって、やり始めると店中大騒ぎ、サラリーマンもいましたが、すぐに学生気分に逆戻りして楽しみます。
 そのころの客は今ではどこそこの支店長とか、大会社の重役とか大層な大先生になっている人も多く、テレビで見ることもしばしばあります。
猿渡賞(女性のノーベル賞といわれているそうです)を受賞し、その授賞式に僕が招待されたこともありました。その席には大勢のこの店の客がいるから遠慮はいらないと言われましたが、飲んだくれの居酒屋の亭主の行くところではないと辞退いたしました。
南極越冬隊員になった人もいます。南極にも郵便局があるのだそうで南極局の消印のある絵はがきをもらったことがあります。もっとも「配達する人がいないから自分で配達しなければ駄目だ」といって彼から直接手渡されたのですけれど。
ドイツ統一の時には、ベルリンの壁が送られてきました。
朱鷺の診断をして卵の孵化に一役かったのは、店を始めたときに大学四年生だった珠乙君で。とてもとぼけた子で大学の先生になるとは思えませんでしたが、国費でアメリカに留学もし、今では優秀な教授です。
 カウンターの上をゴキブリが走った時、キヤーと言った客の顔を見て、昆虫学者は「ゴキブリも住めないような店は危なくてなにも食えんぞ」と言ったものですが、今彼の言っていたようにゴキブリの姿がめっきり減って、本当に人間の住めないような環境になりはじめているのかも知れません。

名大がすく近くにありましたから留学生もよくきました。
西洋人もたまには来ましたが、どうもあまり気にいってはもらえません。彼らはやはりどこかで東洋人を区別しているようで、英語が通じてしまうからかも知れなかったのですが、日本語を覚えようとはしません。それとも、つまみを食べながら、飲んで騒ぐ、という習慣がないのかも知れません。
日本で飲み食いするほど、お金が無かったのかも知れませんが、留学生で 一番数の多い中国人もあまり来てくれませんでした。
そこへいくとベトナムとか韓国の人はすぐに日本語を覚え、騒ぐのは大好きな人たちでした。
ある寒い晩「今日は払えませんが、お酒を飲ませてください」と下手な日本語で言いながら、韓国人らしい人がはいってきました。掛売りなど考えてもいなかったのですが、始めての人に言われてすぐ「いいよ」と言ってしまいました。それからしょっちゅう来るようになり、韓国人のお客さんも沢山連れてきてくれました。 
彼は留学生で、しかも妻子がありましたから、月一度の支給日にしかお金をもっていません。うちに来るようになってからは奥さん公認になり、それでつけで飲めるようになったのですが、代金はこちらが忘れている分までちゃんと覚えていて払ってくれますから、面倒な計算なしの申告制にしたほどです。
韓国の人達はとても団結心が強く身分・年齢などの上下関係には厳しいものがあります。
一度招待に預かり、飲みに行ったことがあります。数人の日本人もついでに招待されたですが、飲むのも、食べるのも、煙草を吸うのも、主賓の僕が一番でなくてはいけない、とか煙草を吸う時には許可をとれとか、横を向いて吸うように、とか無礼講になるまでは色々しきたりがあるようで、緊張します。
日本と違って母系であること、今でも僕にその母系のシステムがどうなっているのかわかりませんが、名字が同じだと親戚のことが多く、その割に日本のように多くの名字はないのですから、よく分かるものだと感心しましたが、どの地区の孫姓は誰の系統、何処の林姓は誰の系統とすぐ分かるのだそうです。
先祖が中国だという孫さんや劉さんや林さんは純粋の韓国人でないことを誇りに思っているところがありましたし、彼らは貴族だとも言っていました。
 なるほど威厳が有り庶民とは食べるものも少し違っています。
孫さんにキムチをもらったことがありますが、市販の物とは見た目も味も別物です。白菜の塩漬けを一枚一枚丁寧にのばし、その上にあみ海老や魚、唐辛子などをはさんでそれを形崩れしないようにもう一度漬けたもので、それを押し鮨のように四角に切って皿に盛るので、丁度金沢のぶりの押寿司のようです。味もとても上品で見た目にもきれいなものでした。
みんな勉強は熱心でその他にもいろんなことに興味を持ちます。
劉さんは日本語を覚えたいから、ただでいいから働かせてくれと言ってきました。とてもおしゃれなきれいずきな子で、半年もするととても流暢な日本語を話せるようになっていました。飲めて、給料がもらえ、生の日本語が学べる。これは実に良い方法です。
店は僕と一人のアルバイトできりもりします。バイトのなりてが多く、入ったら止めませんから、いつも四・五人いて、でも仕事は一日一人でしたから、彼らの好きなようシフトを組んでもらい回します。それで結局バイトのない日でも来てバイト代をはたいて飲んでいます。彼らも楽しければそれで良い連中ばかりでした。
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by takaryuu_spring | 2006-09-25 18:21

酒6

少し遠出の大台ヶ原の紅葉は最高でした。三台の車を連ね奈良県から登って行きます。渋滞を予測して早朝の出発。それでも少し渋滞に巻込まれ、到着したのは三時になりました。まずその日泊る宿を見つけなくてはいけません。
案内書にあった神社兼宿屋に行くと、泊まれるような雰囲気ではありません。おみやげやで聞くと「ああ、あそこの主人、気が触れてもうやっていないよ」という話し。立派な旅館もありそこに行くと満員。食事なしの山小屋があるというのでそこに行くと、これが木造の古く大きな建物で、がらがらでしたが、僕は気に入りました。
大台ヶ原を紹介した案内書には、他にも食事の出来るところのあること、そして火気厳禁とも書いてありましたから、食べ物の準備をしていませんでした。
「食事はないよ」と言う管理人さんに「それでいいです」と部屋を予約、個室もあるけど寒いからとストーブのたかれる体育館のような大部屋をすすめられ、利用者は全員その部屋に泊るようでした。
食事の用意をしていませんから、駐車場にあったおみやげや兼食堂に行き、壁に貼られたお品書きを見ますが、うどんしかなくしかたなく「山菜うどん」を頼みました。
湯通しもないうどんの白玉に、山菜のビン詰めをのせ、熱湯をかけただけのものが出されてきて、出されたときにもうぬるいのです。なんの出しもきいてはいませんから最低、カップヌードルを買ってお湯をもらった人の物がご馳走に見えたくらいでした。
まずいうどんを食べて宿に帰ると、山小屋になれた人たちでしょうか、すき焼やら焼肉やら始めています。実に悔しく損をしたような思いで、宿にある売店で酒だけ買いみんなで寂しく膝を抱えて飲みました。
まずい酒は翌日にまで残るのでしょうか、何時になっても誰も起きようとしません。それで僕と秋元さんの二人だけの散策になってしまいましたが、大台ヶ原とはよくいったもの、高い山なのにこの頂上に起伏はあまりありません。杉の林からはキツツキの木をつつく音、開けた湿地に出ると鹿の集団が遠くからこちらを覗いています。
立看板にギネス一の豪雨「一日の雨量一一三0ミリ、この雨では雨具は用を足しません」などと書いてあります。酸性雨のためでしょうか、栂の大木の多くが枯木になっています。
しばらく行くと歓声が聞え「ここを見なくてはね、やっぱり凄いわ」となどと言う声が聞えます。
その声の先は断崖絶壁の大蛇ぐら、何百メートルもの断崖のすぐ向うに、これも何百メートルもの円筒形の山?がありそれが紅葉しているのです。立山のように平面的に一面の紅葉ではなく、垂直の紅葉は思ってもみないもので、起きてこなかったみんなには実に申訳ない気のしたものです。
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by takaryuu_spring | 2006-09-24 20:23

酒5

運動会に五十人も集まったこともあります。名大付属のグランドを借り、綱引きのロープや応援の太鼓を近藤興産で借り、それにペットフードの平山さんなど会社のぬいぐるみを持ってきたりしてたいそうな賑わいです。
騎馬戦は過激で、風船が割れたら負けというルールでしたが、拳法部や剣道部の連中は風船を割らないように馬をつぶせと先頭の人の足に蹴をいれたり、体当たりをしてきます。
弱い馬は逃げ回り強い馬は喧嘩みたいな勢いで蹴合っています。
飴とり競争も顔をうどん粉で真っ白にして飴を探し、みんな白んぼになって大笑いです。
綱引きは力の強そうなチームが敗れ、かえってひ弱に思えたチームが勝ったのはおどろきでした。応援合戦の音頭は神谷設計事務所の中村さんが「よくしらふで出来る」と感心されながらの熱演でした。
リレー・短距離・綱引きと、まあ少ない人数で欲張りなこと、一人で何種目も参加するのですからもうふらふらになってしまいます。

ある秋、御在所に行こうと言うことになりました。
頂上で飲もうということになり、どんなふうに楽しむかということが問題になります。そして取りあえず「何を食べるか」ということに話題はしぼられました。
山形大学出身の藤村君が「芋煮はどうだ、これは川原でやるやつでいたって簡単だ」と提案します。
なるほどそのやりかたを聞いてみると簡単も簡単味噌汁の具を大きく、そして量を多くというだけなのですから。
よしそれに決めたと里芋・こんやく・大根・人参・肉などを大きくぶつ切りにして袋に入れ、味噌・砂糖などの調味料、後は鍋だけと、それだけを用意、水・酒やビ-ルは現地で調達出来るとふんで出発です。
特大の鍋を頭にかぶり足の強い者が荷物を背負い、でぶや女性は手ぶらで山に向いました。
酒ばかり飲んでいるでぶの身には御在所といえどもなかなかどうして、たいへんな思いをしての登山でした。
思っていた通り頂上には売店があり、缶ビ-ルや水は簡単に手に入る。
それを確認してからいよいよ準備にかかるのだが、しゃべっていっぱしに指図する奴にろくな奴はいない。口だけ達者で体はなかなか動かないのだ。
薪はどこにある?竃の石はどこにある?と言うだけで自分で捜そうとはしないのだ。そして思付くままにいろいろ手を付けるものだからなんにも終わらないし、何も任せられない。それでそういった輩には一番よい場所を与えて飲んでいてもらう。
竃は大きめにしっかりしたものを作り、すぐに火を焚き付けその火をどんどん大きくして太い木にもしっかり火を付け、大きな炎や煙がでないようになってから鍋をかけるのだ。
焦って竃全体が熱くなる前に調理を始めると、火がくすっぶったり消えてしまったりと、きっと失敗する。
鍋が傾いて大慌てなどということのないように、竃は少々のことでは壊れないように丈夫に作ることも大事なことだ。
火に物をのっける段になったらもう出来るだけ動かなくてもよいように段取するのだ。そうすれば飲んで楽しむことに専念できる。そうして出来上がった芋煮は大正解で、少し寒い山頂ではとてもおいしかった。
ビールに飽き酒をちょくちょく買いにいくのも面倒だ、というので山頂レストランの調理場に頼んで二升ばかり都合してもらう。こういうのは口だけ人間が役に立つ、実にうまく原価で仕入てくるのだ。
登ってきた人達がうらやましそうに見るので、また一層おいしく感じられ、一杯どうぞと器にもってさしだすと旨いうまいと言って食べた。
お礼に缶ビールを持ってくる人もいたりして、日が沈むまで楽しむ。御在所にはロープェーがあるので帰りは歩かなくてよく、安心なのだ。
街に灯の灯り始めた四日市・鈴鹿そして伊勢湾を眼下に眺めながらゆっくり降りるロ-プエ-は、酔った目にまるで鳶になって大空を飛んでいるようでした。
そんなことも快感でしたから、登り道を変えて二三度利用しましたが、そのうちに火を使うことが禁止になり止めました。やはり火があるとなんか燃え、宴会は続くもので、焚火がないとなんともものたりません。
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by takaryuu_spring | 2006-09-23 17:23

酒4

あほらしい、何の為に働いてるのだ、飲む為なら自分で飲み屋を始めれば良いと居酒屋を始めました。
勿論一銭の金も持ってはいませんでしたが、「金は出す、店をやってみろ」という人はいました。
本山を東に坂を登って桃巌寺のすぐ下に食堂があり、そこが廃業したのでそこを借りて居酒屋を始めました、1980年頃のことです。
ようやく開けはじめた本山は、名古屋大学があるだけ、ぼちぼちしゃれた店もできはじめていましたが、人通りは人数だけ多くてもいたって色気のない学生だけのものでしたから、酒屋の調査では素人のぼくなんかでは「すぐに潰れる」と現金引き替えでしか酒を卸してくれませんでした。
それがこのあたりが東京の青山に似ているとかで、しゃれたブティックが採算を度外視して店を出し始めていて、そこで働く女の子たちは若くとてもきれいでしたし、思っていた以上に大酒飲みでした。
大学の教授などの偉い先生たちは、大学にこんな近くては色々都合が悪いのかあまり来ません、大学生や院生・助手・が主な客でした。それにブッテックの女の子が色を添えます。
それと大学には女性もたくさんいて、男女は同権です。そんなわけで飲み屋にしては異状なほど若者・そして女性客の多い店になりました。
飲んでの話題は多岐に渡り面白く、ほかの店のようにおじん臭いものでも下品なものでもありません。
バイトも大学生と言うふうでしたから店をやっているというより自分も充分楽しめました。
客にとって「なにを歌うの」と歌しか能のなくなっていたその頃のスナックより話題は豊富で可愛い子のいる店でしたから、多分どこよりも楽しい店だったと思います。
客どうしがみんな友達になっていましたから、春夏秋冬、山菜採り・ピクニック・海水浴・キャンプ・運動会・スキーに忘年会・新年宴会と大忙しです。
嫌な客はみんなで無視しました。
おもしろくもなんともない人とか、自分のことしか頭にない「おれは客なんだ」というような人は、一人隅においやられ何度か来ても相手にされませんからそのうちに来なくなります。
中年のあるサラリーマンなどは、それでも根気よく通い続け、やっとピクニックに誘った時には「なんて強情な店だ客を客だと思っていないんだもんな」とやっと仲間にいれてもらえたというふうに言いました。
金払いもよく本当なら良いお客さんなのでしょうが、どうも話題にとぼしく楽しくありませんからこちらで敬遠していたのですが、まあ良いかとピクニックなどにも誘いますとそれは喜んで来てくれました。
店を始めると多少柄の良くない人がやってきて、何か文句をつけるものですが、その類の人がきてもみんな一緒に騒いでいて相手にもしませんから、白けて二・三度来るともう来なくなります。
随分乱暴な話で商売の道に反するのでしょうが、まず自分が楽しいことが第一でした、勿論お客さんと一緒にですけれど。
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by takaryuu_spring | 2006-09-22 18:06

酒3

初めて勤めに出た時のことでした。電車だと一時間近くかかったが、自転車で最短距離を走れば三十分で行ける。それでいつの間にか自転車通勤することになっていた。その通勤途上に安兵という飲み屋があって、毎日通った。
夏の終業時間はまだまだ明るい、暑く日の照るうちからそこのおかみさんはいつも揚げ物をしていて、その匂いがぷ~んと食欲をそそる。
まだ営業をしていないのだが止まって見ていると「飲んでく」と声を掛けた。
それがきっかけに通うようになったのだが、何故か僕のことを気にいってくれたとみえ、ビールを一本飲み終わると頼みもしないのにもう一本、もう一本と出してくれた。それで勘定はというと一本分だけなのだ。
「ちゃんと払う」というと「あそこに嫌いな客がいてあんたにいて欲しかったから出したんだ、大丈夫ちゃんとあいつに付けてあるから遠慮するな」と言う。「そんな大事なお客さんでしょう」というと「大事なもんか亭主がいないといつまでもいて、私を口説くんだ、気持ち悪くってしょがないよ」と言った。
本当にいつもきていて、それでいつも自分の本当の飲み代以上の飲み代を何の文句も言わずに払って僕より先に帰った。
彼が帰ると、アアさっぱりした私も一杯飲もう、と言ってグラスを傾けた。
何時の間にかほとんど金を払わないどころか、店が引けてからも色々飲みに連れて行ってもらうようになり、それでいてそれ以上の関係などには全然なりはしなっかた。
用心棒でも紐でもなく話相手だ、これは僕も後で居酒屋をやってみて解ったことだが、彼女にとって僕がいると仕事が仕事ではなく楽しみになっていたのだ。 
お金を忘れさせいてくれる、とかなんとなく元気になる、とか見ていてくれると張り合いが出るとかいう人はいるものだ。いつもその手先に視線を感じると自然に良い仕事をしたくなり、そして当然真剣にもなる。それが病み付きになると真剣に見られていないと寂しくてたまらなくなるものだ。たぶんそんな客になっていたのだろう。
その後、会社をやめてずっと遠くに引っ越してしまってから、三十才に近くなっていたのだろう。酒が体に残るようになった。というか飲みきれないほどの酒を夜明けまで飲む毎日だった。朝起きて歯ブラシを口に入れると「ウェ」となる。多分胃が荒れていたのだ。
酔ってうるさい騒音に目が覚めてみるとテレビ塔の下のベンチだったり、公園の芝生の上で蟻の首筋を這うのがくすぐったくて、起きたこともある。まるで見覚えの無い場所にいて、そこが何処なのかを思い出すのに昨夜の行状を記憶の中にたどってみなくてはならないこともありました。
良い気持ちで店を出るとそこは真っ白な雪化粧、それがふわふわの布団のように見え、ついつい横になって寝てしまったこともありました。
「おいこんな所で寝てたら死んでしまうぞ」と誰かに起こされ、またその人たちと飲みに行ったこともありました。
意識のないまま家に帰ろうと歩いていたらしく、ふと正気に戻ってみると十年も前に住んでいた家の前にいたこともありました。
マンションの違う棟の他人の家に入ろうとしたことも、たまたま鍵がかかっていなくて人の家に入っていってしまい、そこに知らない人がいたのを、その人の方を泥棒だと思ったこともありました。
酔うと動対視力というか、ものに対する反応が正常の時とは大分違うようで、 転ぶときなどスローモーションで地面が迫ってきます。不思議なことに地面にぶつかる寸前に受け身を取るようで、転んでもたいした怪我はしません。
酔って走り幅跳びをしたことがありますが、これは大変危険なものでした。跳んでまだ空中にいて、着地の姿勢ができていないうちに着地がやってきますから、膝が反った状態で地面に激突、膝の間接を傷めたことがあります。
そのうちに寝てしばらくすると、やたらに喉が乾き、目が覚めてしまうということが多くなりました。「飲みすぎたからな」とそのときは思っていましたが、今考えれば糖尿病の始まりだったのかも知れません。
エンゲル係数など百です、その収入のほとんどすべては夜の町に消えました。働いても給料日になるとスナックから電話がかかってきます、付けを支払い暫らくするとまた付けの出来る所にしか行けなくなってしまいます。
十二月の給料とボーナスを飲み友達と二週間ほどで飲み尽くし、正月は二人とも文無しという年もありました。
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by takaryuu_spring | 2006-09-21 19:09

酒2

 どのくらい経ったか分からないが、近所に住む友達の辻君が大丈夫かと僕を揺り起こしていた。
太陽はもう真上を過ぎ、初夏の日差しが酔った目に眩しく、くらくらする。見ると辺りに飲んでいた仲間はもう一人もいなかった。
彼の言うには皆の帰るのに会い、僕が上でのびているから水を持っていってくれと、頼まれたのだと言った。
大きなやかんにいっぱい水を入れてもって来てくれていた。それをがぶがぶ飲み、やっと起きた僕を支えながら「何がしたい」と聞く。
「小便がしたい」と言ったが、彼を支えに、立ち上がるのが精一杯でなかなかホースを出すこともおぼつかない。
彼がひっぱり出してくれ、肩にしがみつきながらやっと用を足す。
かりかりに乾いた地面に小便が砂埃をたてて吸い込まれるのを見て、小便で落書などしたいと腰をふって「おいおいかかるじゃないか」とたしなめられた。
暫らくすると酔っぱらった他の人を送って行った数人の先輩が引き返してきた。歩けもしないのに僕が歩くから良いというのを「寝ておれ」と言ってまるで人を丸太を担ぐように皆の肩に担いで山を降りはじめた。階段を先輩達の肩の上で意識はまた朦朧としてきていつのまにかまた寝ていた。
目が覚めたのは電車の中だった。
それが初めての酔った経験でした。

翌日の二日酔いの辛かったことといったら今まで罹ったどんな病気よりひどいものでした。
頭は割れるように痛く、脳味噌がぐにゃぐにゃかきまわされているように目が回ります。目を開いていてもつぶっても眼球を動かしても、体中どこをどうしても気持ち悪く吐き気をもよおす。部屋からベランダに首だけ出して、よだれを流して丸一日を過ごすより仕方ありませんでした。
天井も柱もぐにゃぐにゃに曲がっています。とても映画での表現どころではありません。天井も柱もまわりますが、それ以上に脳味噌と内蔵が引っ掻き回されるような不快感付ではありませんか。
こんなこと、映画では気分よさそうに鼻歌など歌いながら、よれよれの景色が見えるというふうで、腹からぐにゃぐにゃな風景になるなどとは少しも表現されていなっかたのですから。
普通なら急性アルコ-ル中毒で入院しているところだったのかも知れません。
本来ならそれにこりて矢張り酒など飲むべきでないと思うところですが、僕はそれから飲み始めてしまいました。
ただの酒を飲むばかりの、それも好き好んで飲んでいた訳ではありませんからちょっと飲むと吐き、そしてすぐ眠り、また飲みという飲み方です。
吐くことは車酔いでなれていましたから、飲んだものをすぐに全部吐いてしまい、体の中にはあまり吸収されなかったのでしょう、なかなか本当には酔いません。それで結局随分酒の強い奴とさえ思われていました。

それがいつのまにか自分でお金を払ってでも飲みたいと思うようになり、そうすると吐いたら損だと感じたのか、飲んでも吐かなくなっていました。その上二日酔いもしません、完全に酒を受け付ける体になってしまったようです。  
どれだけ飲んでも一晩眠れば翌日には健康体で復帰です。八時間の睡眠は何合ものアルコールを分解するのに充分になっていました。
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by takaryuu_spring | 2006-09-20 19:03