後生の大事ということを聞いたことがあるでしょうか?
中学生になると、今まで漠然と思っていた将来に対して、少し現実的に行動し始めます。 最初におもうことは、どこの高校に入ろうかでしょうか? それは大学に進学するための布石であり、その一段が今後の人生を別けると考えるからです。 大学も良い就職というかなり曖昧な問題を、かなりの確信をもって選択します。 良い結婚、暖かい家族に囲まれた生活、のんびりした老後です。 このへんから先は、昔は子ども、孫、ひ孫に看取られて成仏が夢だったのでしょうが、今はどこで死んでも関係ない「無に帰すんだ」と考える人が多いのかも知れません。 全体を振り返って見てみると、いつも見てきたのは明日のことばかりなのです。 人生最後の目標だけ尻切れトンボで見えていません。 生きているとき、どこで終っても不思議のない人生なのに、行き先無しに生きていることになるではないか、蓮如はそれを「後生の大事」といいました。 蓮如の有名な御文に「朝に紅顔ありて、夕に白骨になれる身・・・」というのがあります。 物理では存在が無になることはありえないといいます。 存在した命です。あったのですから無くなってしまうわけがないのかも知れません。 何教でも命が死ぬとは考えません。 仏教では生まれたとさえ考えていないのかも知れません。 いろいろな条件の一つの遭遇が人間という存在なのでしょう。 僕(我)という存在との遭遇は、命にとってまさに百千万劫難遭遇の遭遇です。 僕の我と、相思相愛に一体化できるかどうかが命の側からみた願だった思います。 百千万劫という時間からみたら一生は瞬間です(もっとも時間など意味がないのでしょうが)。 僕の願ではなく命の側の願です。命とは仏そのもののことです。 僕は仏に期待されて本願の中にいる僕という存在だと思います。 期待されるといっても長生きとか金持ちとか有名ではありません。 命に気付、命を楽しんでもらいたい、ということでしょう。 陽のよく当る軒で猫が目を細めてねていました。 冬はあれこれしないで布団に包まって極楽を決めるのが仏の思し召しと考えを定め、布団にもぐっていましたが、どうも居心地が悪い。 日の明るいのに飲み始めたら明日が頭痛で始まります。 できることをしてそれを喜ぶのでなくては満足しないようです。 なんとも猫のように幸せにはできない人間であります。
by takaryuu_spring
| 2006-12-23 14:03
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