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煩悩具足

僕は勝手な仏教徒、だってなかなか機会がないのですから、自分で読んだり考えるしかないからです。
自分の煩悩は自分では見ることが出来ません。もし見ることが出来たならそれは如来の光に照らされて見せてもらっているのです。如来を通してしか見えないのです。
天地一切のことは全て仏様の働きです。色々なことに出会いますが、その全てに無意味なことはありません。出会う色々なことから教えられ鍛えられ学ぶのです。一日一日の動きが教科書です。
私と天地は別物ではありません、天地様仏様が私を通して働いていることが生きているということです。ご飯を食べ排泄し眠る、そういう風に仏様が私の中を通って行きます。生きている間中生かされてる自分がいて、自分ではどうすることも出来ない物です。

人の悪口を言ってしまった。本当はそんなこと言ってはいけないのだと思いながらも、いつも心の奥のどこか底の方にあった醜さがヘドロの泡のようにぽこんと出てきて、いい子ぶっている僕の鼻先ではじけ僕の心はその悪臭で我慢が出来なくなります。煩悩を捨てることなどできません。それが僕でその僕の中を仏様が通っている。それを自覚できれば何も心配要らないのです。

5匹の金魚を買ってもらった、1匹すぐに死んだが残りの小さな4匹の金魚は順調に育っていた。夏の日差しに水槽の水はすぐ藻が生え緑に汚れる、これが何とも許せない。乱暴に如雨露で水がきれいになるまで水を加えた、その水流にヘドロは舞上がりそれできれいになった。
翌日一匹の出目金が死んでいた。水を多く変えすぎたかなと思った。
しばらくしてまた水の汚れが気になり又水を如雨露で勢いよく足した、この前より少し少なかったかも知れない。でも次の朝やっぱりしっぽの三つに分れた一番可愛かった真っ赤な金魚が死んでいた。
残ったのは鯉のようなしっぽをしたすばしっこい金魚だけになってしまった。
情けないことに金魚の死ぬことより水の汚れていることの方が許せなかったのだ。

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by takaryuu_spring | 2006-08-14 22:32


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