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印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
親鸞はお釈迦様のように悟りを啓こうと真剣に仏教を学び修行をしてきたのですが、どうしても煩悩を捨て去ることが出来ないで悩んできました。そんな親鸞を救ったのはお釈迦様がこの世に出生されたわけは、「阿弥陀様の本願を伝えるためだ。」という法然のヒントからでした。 浄土の教えを溯ると源空聖人(法然・日本)←源信和尚(日本)←善導大師(中国)←道綽禅師(中国)←曇鸞和尚(中国)←天親菩薩(インド)←龍樹菩薩(インド)で、この七人を七高僧といいます。 釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 お釈迦様はインドの楞伽山という所でみんなに告げました。 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 「龍樹大士が世に出て死後の世界があるのかないかを見破り、自ら安楽国に行き、大乗の法こそ喜びに満ちた安楽の地に行く方法だということを証明するだろうと」。 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽 『陸路を歩いて行く旅はつらくて困難ですが、安楽国行きの船だと信じて乗っていれば易しく行けるのです。 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 弥陀の本願を念じていれば、即時自然に悟りの中にいます。 このような意味のようです。 よく「後生の一大事」といって「来世に悔いのないように現世を生きろ」といいますが、本当に来世があるのでしょうか? 龍樹菩薩の教えを本当に知りたくなります。 # by takaryuu_spring | 2011-12-02 22:26
即横超截五悪趣
人は悟りをひらくまで六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を輪廻するといわれますよね。その六道から修羅を除いたのが五道で五悪も五道と同じことだそうです。 輪廻すると言っても死んで生まれかわるというような途方もない時間を要することではなく、ちょっとうまい具合に行くと有頂天になったり、反対に何もかもうまく行かないと絶望したりするのが人間ですが、即横超截五悪趣とは、そんな一喜一憂するような心のあり方はすぐに断ち切ること。 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 そして善人悪人凡夫を問わずすべての人々よ、阿弥陀仏の誓われた願いを聞き信じなさい。 仏言広大勝解者 是人名分陀利華 そのような人のことをお釈迦さまは「広大勝解の人」(広大なすぐれた法をよく領解した智慧の人)といわれ、まさに「分陀利華」(蓮の花)のようだといいました。 つまり泥にまみれた凡夫が自分は凡夫だと自覚したとき最も活き活き生きる術を獲られる。そんな人のことを白蓮華とか妙好人とも言います。 生きているのではなく、生かされてある自分を見るとき、周りのもの全てが有り難くなります。またしばしば有り難いという思いは神化され祀られます。鰻供養とか針供養とかなんでも供養しますが、供養するということは感謝するということです。 美味しいと思うとき、綺麗だと見えるとき、気持ちいいと感じるとき、いやだ、きらいだ、汚い、恐ろしい、などなど思うとき、その時対象がその人に認識された時です。そして「苦くても良く効く薬なら有り難い。」と思うように、人の見方はあてにならないものです。あってならないことは、何も感じない、有り難くもなんともないこと、それでは存在はあっても意味を持ちません。 生かされて存在する自分を自覚したとき、自分は相手に対してどんなふうに存在しているのかも見ることができ、正しいありかたが見えてくるのではないでしょうか。 弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 よく「念仏の他力の行は易行だ。」といいますが、本当に阿弥陀様にまかせきるということは並大抵のことではできないことだと思います。 弥陀仏本願念仏、 阿弥陀の本願を信じているつもりでも、 邪見驕慢悪衆生、 邪な心を持ち又堕落の心や自惚れの多い衆生には、どんなに頑張ってもどこかに[自分が正しい]という自力の心が働いてしまいます。 信楽受持甚以難 自分で生きているのではなく生かされている自分だと自覚して生きていることはとても難しいこと、 難中之難無過斯 難中の難といっても過言ではありません。 # by takaryuu_spring | 2011-11-27 09:38
3月11日の大地震の少し前に名古屋から東郷町に引越し、それ以来この頁を考えることもなく、随分長い間サボってしまいました。
今回は、宮崎県椎葉村で焼き畑農業を続けている椎葉クミ子おばばのお話を少し。 先週の日曜日(10月16日)のこと、再放送されたNHKスペシャル『クミ子おばばと不思議な森』(http://www.nhk.or.jp/special/onair/110925.html)という番組を見て、僕の思考体系は日本人の遺伝子の中に組み込まれているものなのだなあと実感しました。 僕は、昭和30年代に学校で「宮崎県の山間部では今なお焼き畑農業をやっている人たちがいる。」と習いました。山を焼き畑を作って、土地が痩せると移住して又山を焼く農法で、世界中どこでも同じだと思っていたのですが、縄文以来続いてきた日本の焼き畑は少し違っていて、日本の焼き畑は移住はしないで30年を周期とする循環型焼き畑農業でした。 息子さんが焼き畑をする動画がありましたので。 そんな焼き畑を今なお続けているクミ子おばばは、生きることを「世渡り」という表現で言い表します。 普通「世渡り」とは人間の間で立ち回ることを「世渡り」と言うのですが、87歳になるおばばの「世渡り」のいう世渡りとは大自然の中に溶け込んで生きていくことを言うのです。 30年かけて山を一周しもとの場所に戻ってくる。先祖代々山を出ないでそれを縄文時代から続けてきたというのです。 30年を周期にする理由は、木が最も元気な状態にあるが芽生えてから30年目で、その木を切って燃やせばたくさんの豊富に肥料分を含んだ灰になり、良い畑になると同時に木の根も元気ですから健やかなひこばえを芽吹かせる、木が元気だと根はまた若返る。その循環をさせるのに最もよい時間が30年のようなのです。 焼いた跡にすぐ蕎麦の種を播き、4年間畑として使った後それ以降は自然に任せるとまた元気な森にかえって行く。その山に住んできた獣や鳥や蛇や蛙やミミズや虫や山菜や茸・・・たちと一緒に生き続ける。一切衆生悉有仏性というのでしょうか、山全体がひとつの生命体、循環型焼き畑には人の一生もその循環の中に組み込まれているのです。 日本人がどんな宗教を信じても、そのはるか昔から日本人の命の中には、言い換えれば「どんな「物」・「事」にも神様が宿っている。」という観念が遺伝子として組み込まれているような気がするのです。 # by takaryuu_spring | 2011-10-30 14:38
至心信楽願為因
阿弥陀仏の願いが成就する為には心から信じ生を楽しむこと。 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 必ずすくいとるという法蔵菩薩の願いが成就されているのですから、阿弥陀仏に帰命すれば、つまり悟りを啓いたことと同じことなのです。 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 お釈迦様がこの世に生まれたわけは、ただただ阿弥陀仏の海のように深く大きい本願を説く為なのです。 よく仏教は無常を教えているとか、因縁の法だとかいいます。 日蓮宗で大事にする教えは、一念三千の法で、物事は常にお互い作用しながら一時も同じ姿ではいないもの、そして、その動き方を十如是で説明します。(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)、を十如是といい、存在には相があり、性質があり、力があり、作用があり、因がえれば縁もあり結果もうまれ報もうける・・・そしてまた始めにもどる、と輪廻の説明しています。 お釈迦様も人間として生まれ、仏陀となられたのですが(迹門)、誕生のずーと以前、違う世界で如来だったと言います(本門)。それを久遠実釈迦牟尼世尊といい、この世に阿弥陀の本願を説く為に出生したというのです。 お釈迦様の修行については、一番親しまれている般若心経で、観音菩薩は、知恵を絞って世の中を観てみると、世の中「無」なんだと気づく。そう思った瞬間悟りを啓いた。という説明しますが・・。 でもそんなこと分かっても自分の心に起きるさまざまな波から逃れることは出来るわけがありません。青年のころの親鸞は、飢えや睡魔と闘い修行したのですが、性欲を抑えることはどうしても出来ない。夢にまで女性出てきて夢精してしまいます。存在するためには、食事も睡眠もそれに性交だって必要なのに、それを欲というならどう「生きろ!」というのだ。と悩みます。 そして法然に出会い見つけた救いが南無阿弥陀仏でした。 五濁悪時群生海 応信如来如実言 どんなに汚れきった世の中、欲だらけの自分でも、如来の願いに応えるなら 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 自分の生を喜び愛する心を起こせば、煩悩は断ち切られ悟りの世界に入る。 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護 如来の大きな海に浸かってしまえば、聖人罪人の別などない、如来の眩しい光に護られているのです。 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 阿弥陀如来の光は無明を突き破っていくのですが、なかなか自分の欲も強く心は自分は欲に埋まって晴れた気がしない。 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 でも、たとえ日が雲に隠れていて、暗いときでも光がさしていると信じきっていれば喜びがこの心に満ち溢れてきます。 # by takaryuu_spring | 2010-11-30 01:40
「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」
法蔵菩薩は、五劫という長い時間考えた末48の願を選びぬかれて阿弥陀如来になりました。 「劫」とはとても大きな数字、壱拾百千万億兆・・・・不可思議無量大数・・劫、10進法の最後の方に、不可思議とか無量大数がありますがそれよりもっと大きな数のようです。 現在はどうかわかりませんが、オーストラリアのアボリジニの考えでは数は1と2だけだそうで、もので考えてみれば同じものは二つはないのですから確かにこれが真実ですよね。 でも便宜上にしろゼロを考えたインド人はすごい!!、10の0乗は壱なのですよね、実際にないものでも観念がある訳ですから。 少し脱線してしまいましたが、その「劫」の5倍が五劫ですから、実際にはビックバン以前の宇宙が出来る前まで遡ることになり、「宇宙が始まったときはすでに阿弥陀で、その声をきいてくれという願いで始まった。」ということでしょうか。 普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 物の属性として、全ての物には万有引力が働いていますよね。そのほかにも色々な光や波長を出しているのでしょう。阿弥陀の放つ光は、際限なく大きく、遮ることのできるものもなく、清らかで知恵と歓喜満ちた、太陽や月の光など比較にならないほど光です。 一切群生蒙光照 地球に引力があるから立って歩けるように、気づかなくても全ての存在は、この光に照らされていないものはありません。 本願名号正定業 阿弥陀の願いは、阿弥陀に気づくこと、南無阿弥陀仏こそが正しい生き方なのです。 ・・・南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・ # by takaryuu_spring | 2010-11-20 01:37
仏教は、宗教ですが、なにか神様のような存在を信じる宗教ではなさそうです。
浄土真宗の人がお勤めに唱える正信偈ですが、お経ではないそうです。 お経は、お釈迦様のお言葉を書き残したもので、正信偈は、親鸞聖人の書かれた『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文なのだそうです。 漢字ばかりの文なのですが、日本人の親鸞の書いたものですから、お経より理解しやすいだろうと意味を考えてみました。 まず、正信偈ですが、「正しい信心」ということでしょうか。正しく信ずるとうということですが、それなら正しくない信じ方もあるわけで、それが歎異抄で指摘されています。 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まります。 帰命も南無も帰依するも同じ意味なのだそうですね、漢文とサンスクリット、そして日本語なのでしょうか。 無量寿如来とは、時空を越えた大きな存在ということで、不可思議光とはその存在が及ぼす作用のこと、存在していて働きかけているおおきな力があるという事実が、無量寿如来 不可思議光で、「自分は、その一部であることを認識します。」ということが「帰命無量寿如来 南無不可思議光」なのだと思います。 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」だけで全て言い尽くされているのですが、あとは解説でしょう。 次は、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」です。 菩薩が願を発しそれが成就したとき如来になります。つまり「阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩といわれていたとき、世自在王仏のもとで修行していました」ということでしょう。 「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」 蔵菩薩は、諸仏の中にいて、救いがたい人の世の善も悪もみて、それでも全ての人をすくうというとんでもない誓いをたてられた。 そして法蔵菩薩の願いは成就され阿弥陀如来になられたのです。 今日はここまで。 # by takaryuu_spring | 2010-11-13 13:28
侘びすけでしょうか?東山公園に椿が咲いていました。
![]() 考えれば正しい考えが浮かんできて、間違ったことをあまりしないのですが、 もしも心に思ったとおり即座に言葉に出てしまったら恥ずかしくて生きてはいけない僕です。 立正佼成会開祖の庭野日敬師は、仏教について、これが仏の教えだという記載は、「諸悪莫作 善奉行 自浄其意 是諸仏教」だけしかないといっています。 •諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く •衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い •自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす •是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり 悪いことをしないことやいいことをすることはそれほど難しいことではないと思うのですが、心に妬み嫉み恨み蔑みなどの、やましいことや、淫らなことが浮かばない瞬間がないほど情けない人間でもあります。 行をあけた自浄其意にはなかなかなりえないもの、自の浄は欲の固まりの自分ではなしえるものではありません。 日本の神殿にはたいてい鏡が祀られていると思うのですが、鏡は自分を映しますが、その神殿に置かれた鏡を正視できるかどうか? 本当にあるべき姿の自分でなくては、恥ずかしくて鏡の中の自分を見ることが出来ない、つまり鏡の中の自分の方が正しいのです。 親鸞の他力本願について僕はそんな風に感じます。 # by takaryuu_spring | 2010-10-20 22:00
桔梗草
![]() 1センチくらいの花ですが、桔梗によくにていますよね。 僕の作り話ですから、本気にしないでね。 お釈迦様の弟子にも周利槃特というあほうがいて、何をやらせても失敗ばかり。力仕事なら任せられるかもと、兄弟子が、「風呂に水を入れて、薪を割って、沸かしておけ。」と言いつけました。 たくさんのことを言われても覚えられない槃特は、風呂に水をはりましたが薪を割らずにくべたので薪は燃えずお風呂を沸かすことはできませんでした。 またあるときは、「今日はのっぺじるを作るから、ごぼうとサトイモと大根とにんじんを買って来い。」と頼まれたのですが、町に行くと何を買ってくるようにたのまれたのかすっかり忘れてしまっていました。 ネットの解釈 そして釈迦は周利槃特に一本の箒(ほうき)を与え、あらた改めてつぎの一句を教えました。 「塵を払い、垢を除かん」 それからというもの、周利槃特は多くのお坊さんのはきもののチリを払い、箒で各所を掃除しつつ、一心にこの旬の意味を考え、唱えました。 「塵を払い、垢を除かん」 やがて人々から“愚者の周利槃特”と言われる代わりに、“箒の周利槃特”とあだ名されるようになりました。 こうして何か月かたち、何年かすぎ、何十年という歳月が流れました。周利槃特は自分の心の塵、心の垢をすっかり除くことができ、ついに阿羅漢(聖者の位)とまでなったのです。 ある日、釈迦は、大衆を前にしてこう言いました。 「悟りを開くということはたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底しさえすればそれでよいのである。見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」 僕の話 失敗するたびに怒られ、槃特はもう自分でも嫌になってしまい、修行をあきらめようと思っているとき、それを見ていたお釈迦様は、「槃特よ、どんな仕事が好きなのだ。」と聞きました。 槃特は、「掃除ならあまり考えなくてもできるし、きれいになると気持ちいいし、掃除が好きです。」と言いました。 それで、お釈迦様は、箒を渡し、じゃあお前を掃除担当にするから頑張るようにと言いました。 毎日一生懸命掃除に励んでも、毎日塵が積もり、草が生えてきます。 それでも毎日毎日草を抜き、毎日箒で掃き、毎日雑巾で拭いて掃除をします。 そのうちに塵が積もるように自分は掃き、草が生えるように草を抜き、息をしているのも掃除をしているのも同じ自分なのだなあと気づく槃特でした。 。 # by takaryuu_spring | 2010-05-26 21:23
仏教では、布施をすることが大事だといいますが、僕には、名も財も知力も体力も、なにも持ち合わせていません。
「無財の七施」 1.眼施(げんせ/がんせ) 優しい温かいまなざしで人に接する。 2.和顔施(わげんせ/わがんせ) 優しいほほ笑みをもって人に接する。 3.言辞施(ごんじせ) 優しい言葉をかける。 4.身施(しんせ) 肉体を使って人のため社会のために働く。 5.心施(しんせ) 心から共に喜び共に悲しみ、感謝する。 6.床座施(しょうざせ) 自分の座席や地位を譲る。 7.房舎施(ぼうしゃせ) 雨露をしのぐ場所などを分け与える。 なにもなくても雑宝蔵経には、「無財の七施」のというのがあるから安心しろといいますが、僕にはなにもないばかりではなく、欲張りで、嫉妬深く、疑い深く、自分勝手で、その上なまかわで、でも善悪を言い、全ての幸せを望んでいるようなことが頭の中にはあるのです。 何も持ち合わせのない僕にできそうなことは、眼施と和顔、それと言辞施でしょうか? でも僕の心のとおりに目が物をいったら大変。恥ずかしくていきていけません。 なにしろ人の幸せを願っていることより、失敗を見つけて笑ったり、かわいそうに思ったりするだけなのですから。 ※ かわいそうに思うことって、考えてみると本当は残酷な仕打ちだと思うのです。 口からでる言葉は、お世辞や皮肉やただのおしゃべりばかり、なかなか本心から思いやりのある優しい言葉など出てはきません。 ・・・でも嘘でも和顔はできるかも。 よくあることですが、通勤途中僕を追い抜く人に杖をけられます。すると、ぐらっとして思わず怒りが顔に出てしまいます。 考えてみれば、僕の杖など混雑した中では見えないし、普通の人から見れば、ぐずぐず歩いている僕の方が悪い。相手のことを思えば謝るのは僕の方かもしれないのです。そう考えれば和顔になります。 人が普通で、僕がちがうのなら、たいていのことが、「どうも失礼。」ということになります。 悪気もなく「失礼。」と思うとき、少なくとも怒った顔ではありません。 先日地下鉄の駅で、ポケットから乗車券を出そうとしたき携帯も一緒に飛び出して床に落ちてしまいました。 一部始終を見ていたご婦人が、僕がかがんで拾うのを見て「ごめんなさい。」と言われ、僕はびっくり。 たぶん「拾ってあげなくてごめんなさいね。」ということだったと思うのですが、ときどきそんな人に会うことがあります。 # by takaryuu_spring | 2010-05-19 21:33
僕の両親は、無宗教であることを誇りに思っているようで、90歳に近くなった今では早く迎えに来てくれることばかりを願っている。
そんな手紙を読もらうと情けなく哀れになって、「そんなに生きていることが面倒なら、息をしなければ良いじゃないか」という返事を書いてしまいます。 人の世話になることが嫌いで、老人二人で丘の上に住んでいるのに近所の人の世話も行政の支援も受けず、神様や仏様などいるわけがない、死んでも葬式をだしてくれなくてもいい、そしていつの間にか墓地を買っていて、その理由は、「だれもごみには出せんだろうからだ。」といいます。 僕も似たようなもので、外に神様や仏様がいるとは思ってはいなく、でも仏は確かにいると信じています。 小学生のころのことです、おかずに金時豆がめいめい分小皿に盛られていて、自分の分を運ぶとき床にひっくり返して、あわてて皿に戻して、こぼさなかった皿とすり替えて食べたことがありました。見ていたのは自分の心なのですが60年近く経った今でも心に刺さったまま鮮明に残っています。鼠を殺したときのこと、酔って看板を壊したときのこと、ごみをそっと隠したこと、店員が出てこなかったのでチーズを失敬したこと・・、厭なことは忘れるものだと聞いているのですが、鈎のついた針のように取れずにいる棘があるものです。 NHK深夜便ではしばしば中村元さんのお話が出てくるのですが、凄い人ですねえ。 中村元 (哲学者) - Wikipediaで調べてみると。 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版である『広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され没後全4巻が刊行した。校正や索引作成に協力した者がいるとは言え、基本的に1人で執筆した文献としては膨大なものである。 いう記事があって、深夜便でそのときの関係者の話で聞いた話でもありました。 Youtubeの動画もありました。 http://www.youtube.com/watch?v=NWZtkxP3eGg&feature=related 釈迦の最後の教えは「自灯明法灯明」、どこにも頼りにすべき神仏などいなくて、「自分の心の中を見てごらん、その心を磨き、心の正しいと思うように生きなさい」ということでしょうか。 # by takaryuu_spring | 2010-05-04 16:48
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